「誤解」ということばが、その意味通りではなく、自らの明確な意思表示を隠蔽する意味でつかわれることが多くなっている。
自由民主党の高市早苗という松下政経塾出身の議員による「原発事故では死者が出ていない」という発言だ。ここでも批判されるとそれは「誤解」であり、発言の「真意」ではないと逃げる。橋下大阪市長も同じようなことをした。
ことばというものは、当然それぞれが意味を持つ。自らの考えや感情を表現したいが為にことばとして発出されるのだ。高市も、橋下も、その発言の内容は明確であった。
しかし両者とも、発言した後で批判されたために、「誤解」などとごまかそうとした。
ボクは、こういう人たちが政治家として存在しているということそのものに問題を感じる。政治家のことばは、ある意味公的なものだ。権力を保持しているが故に、権力をどういうように行使するか、その行使の仕方によって人々に影響を与えていく。
ことばの重さを理解しない政治家がほんとうに増えている。いや、ことばの重さを理解しない者たちが政治家を目ざし、政治家になる、といってもよいだろう。
その背景には、日本人のことばに対する感覚が鈍化していることが考えられる。新大久保や大阪・鶴橋で行われているヘイトスピーチは、それを書き写すことすら嫌悪感を抱くような内容であるが、それが街頭で公然と叫ばれているのだ。心の奥底に渦巻く憎悪や怨念などの否定的などす黒い感情が、理性のフィルターを通過されずに表へ表出される。
「理性のフィルター」を通らないことばの蔓延。
ボクは、唯一許される「理性のフィルター」を通過しないことばは、愛情表現のみであると考えている。それは人と人とをつなぐものだ。ひとりの人間が他者を大切な存在として認知した上で発出されるものであるからだ。
しかし、ヘイトスピーチといい、高市や橋本の発することばは、そういうものではない。彼らの発出することばには、愛情のかけらもなく、他者を他者として尊重する精神もない。
今、高市や橋下、ヘイトスピーチのような、汚いことば、悪罵が、インターネットの空間で飛び交っている。その言葉の遣い方に、日本人の精神の劣化を感じる。他者に対する攻撃的な口汚いことば、ことば。
日本語は本来、美しいことばであると思う。彼らは、「理性のフィルター」を通過させないことばでもって、日本語に泥を投げつけている。そうした彼らが「ナショナリスト」だという。
「ナショナリスト」の本質が、彼らの発することばによって暴かれる。随分汚い国になってしまった。