浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

自民党憲法改正草案(その3)

2013-06-25 15:35:21 | 日記
 第一章は「天皇」についてである。

 ボクはこの草案をみて、やはり天皇制ではなく、共和制にすべきだったと思う。天皇制は、時の権力者に大いに利用されてしまうからだ。

 それは第3条に関わる。第3条は以下の通りである。

   (国旗及び国歌)第三条  国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
              2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。


 1999年「国旗・国歌法」が制定された。同法の本則はたった2条である。
     第1条 国旗は、日章旗とする。
     第2条 国歌は、君が代とする。

 制定の際、強制はしないよいうようなことを政府は言明していたが、実際はその後東京や大阪の卒業式などで強制の嵐が吹き荒れた。

 東京都の教育委員であった米長邦雄が、2004年の天皇主催の園遊会で、とくとくとこう語った。「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」。すると、天皇は「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と語った。まあ常識的な内容であって、とりたてて問題とするものではない。これが普通なのだ。米長らが異常なのだが、いまもってその嵐は吹き荒れている。もちろん、それに抗する人々がいるからこそ、憲法草案に、より強制の度合いを強めようとして第3条を草案に入れ込んだのだろう。現天皇すら首をかしげることをさらに強化しようとしているのだ。
 
 それも、第2項も書き入れ、国民に「国旗及び国歌」の尊重義務を課そうとしている。

 フランス憲法も、国旗、国歌を憲法で規定している。しかしその場所は、第一章主権の第2条である。以下に示すが、こういう人権規定や人民主権の流れの中に、国旗や国歌が位置づけられているのである。
  
  
  フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出生、人種または宗教の差別なく全ての 市民に対し法律の前の平等を保障する。フランスはすべての信条を尊重する。
  国旗は、青、白、赤の三色旗である。
  国歌は、ラ・マルセイエーズである。
  共和国の標語は、「自由・平等・博愛」である。
  共和国の原理は、人民の、人民のための、人民による政治である。


 もちろん自民党草案にある第2項なんてない。この条項には、自民党の草案関係者の日の丸・君が代を国民に強制しようとする強い意志を感じる。しかし、この「国旗及び国歌」が第一章天皇のところにあるのだ。つまり、日の丸・君が代が天皇制と密接な関係にあることをここで証明しているのである。

 ボクは、しかし、自民党関係者のために、ここに置いていいのかと、逆に心配してあげるのだ。天皇制とリンクさせる危険性についてである。

 それは、第4条の「元号」にもいえる。
 
(元号)第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。

 これは第一章に内容的に入れざるを得ないものではあろうが、元号法がすでにあるのだ。こうして憲法に入れ込もうという背後に、これもまた強制しようという魂胆があるのだろう。すでに元号よりも西暦のほうが一般的になっているのだから、これはアナクロニズムともいえる。

 しかし元号表記の本質は、天皇の生き死にによって国民の時間の観念を支配する目論見であるから、天皇を祭りあげようとする者たちには、必須の条文なのだ。だが、元号や一世一元の制は、もとはといえば中国にルーツがある。ボクは、ナショナリストたちに、それでよいのか!と言いたくなってしまうのだ。



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自民党憲法改正草案(その2)

2013-06-25 15:14:35 | 日記
 もう少し前文に言及する。前文というのは、憲法全体の趣旨、沿革などを格調高くうたいあげるものだと思っていた。石原慎太郎などという政治家が、現憲法の前文を翻訳調だと揶揄していたが、私はそうは思わないし、理想に燃えとても立派な内容が書かれていると思う。

 それにひきかえ、たとえば第2段。「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とある。「大戦の荒廃」となると、あたかも被害者というか自然現象で起きたかのような記述となっている。そういう姿勢で「国防軍」を設置するというとき、かつて日本軍国主義に蹂躙されたアジア太平洋諸地域の人々は、どう思うだろうか。
 また、だいたいにして3・11の東日本大震災における原発事故の収拾がつかないままでいるのに、それを「乗り越えて」とあるのも、自民党の方々が3・11をあまり深刻に受けとめていないのだということを感じる。

 ちなみに第3段。「(A)日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び(B)家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」であるが、(A)の主語は「日本国民」、(B)の主語は「家族や社会全体」でいいのだろうか。相互の関連を持たない語句が結合されているため、趣旨が不明確になっていると思われる。悪文である。

 それにひきかえ、石原が「翻訳調」であるとする現憲法の前文は、この草案に比べ格調が高いし、内容も素晴らしいものだ。また主語も曖昧ではない。あらためてここに掲載しておこう。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


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自民党憲法改正草案(その1)

2013-06-25 06:21:46 | 日記
 じっくりと、自民党の日本国憲法改正草案を検討している。

 まず全体的な感想だ。ボクは、これに携わった人々の立ち位置に、こういう人たちもいたのかと空恐ろしくなった。というのも、基本的にすべて上から目線であって、社会的弱者や社会の矛盾などについては一切の顧慮をしていないということだ。彼らの立ち位置は、常に国家からの視線であって、人々をどう統治するのかという視点で貫かれている。

 彼らは選挙を通して一時的に議員として存在しているにすぎないのに、あたかも彼らは人々の上に君臨する絶対主義的な国王の周辺にいるかのように、統治者としての自覚にあふれている。それほどまでに自信をもつのはどうしてなのかと思うのだ。

 統治者としての彼らの視野に、もちろん権利の主体としての個人は存在せず、同時に「憲法」のあるべき姿を国際的かつ歴史的に検討しようという意欲もなく、ひたすらひとりよがりの独善的かつナショナリスティックな内容を、これでもかこれでもかと投げ込んでいる。

 安倍政権を、英国のエコノミスト誌は「ウルトラ・ナショナリスト」と規定していたが、その自民党の憲法草案であるが、安倍の周辺にいるウルトラナショナリストたちだけがつくったのではあるまい。しかしこういう内容であるということは、自民党にはそうした輩がいっぱいいるという証左でもある。

 試しに彼らの草案の「前文」を読んでみればいい。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


 前文には、彼らが日本国民のことを歯牙にもかけていないことを証明している。国民は、「国家を形成」する、「国を成長させる」、「国家を末永く子孫に継承する」ことのために存在している者たちなのである。まさに国民は、国家の従僕であるかのようなのだ。ことばとしての「国民主権」はあるが、この前文の行間に、その思想はまったく入ってはいない。

 また「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合」うとあるが、「基本的人権を尊重する」は、防人としての国民と、飛鳥時代の「17条の憲法」の語句との間にはさまれてその意義を抹殺され、同時にそれとて「国家を形成する」手段として位置づけられている。

 堂々とこのような代物を出してくる自民党の諸氏には唖然とするほかないし、これが英訳されて国際社会に出されていけば、ここでも嘲笑の的になるだろう。

 恥ずかしい人たちが、政治権力を掌握している。その政党の人々が国会や地方議会の選挙で当選していく。国民の知的レベルの問題でもあるということを痛感する。
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