今日静岡で「地域史研究からみた植民地責任」というテーマで話した。
日本は、あるいは日本人は、戦争中は「一億玉砕」(当時は、朝鮮人や「台湾人」をいれないと一億人にはならない)、「一億火の玉」、「一視同仁」などといって、朝鮮半島に住む「大日本帝国臣民」である朝鮮人を戦争に駆り立てた。ところが、戦争が終わると、朝鮮人や「台湾人」のことをさっと忘れ去った。日本民族は、忘れ方がひどい。
補償はしない、「在日」を差別はする、今では新大久保などで、ここに記すことはできないような罵詈雑言をコリアンに浴びせかけている。
そういう日本人の意識に、社会意識としての「帝国意識」がある、ということを話した。もちろん「帝国意識」といっても、日本の場合は、「アジア蔑視」と「西洋崇拝」あるいは「対米隷従」とセットになった「帝国意識」である。だからボクはこれを「日本的帝国意識」と呼ぶ。
そうした意識と闘わなければならないと話したつもりである。
最初に総会が行われていたが、何とも元気のない会合であった。その後に行われたボクの講演で、どうにか元気になって帰って行かれたようだ。ボクは他人にエネルギーを与えられるようなのだ。どんな状態でも、元気であるということを、他人に見られるように生きている結果だろうか。
しかし時に、ボクも誰かからエネルギーをいただきたいと思うことがある。
日本は、あるいは日本人は、戦争中は「一億玉砕」(当時は、朝鮮人や「台湾人」をいれないと一億人にはならない)、「一億火の玉」、「一視同仁」などといって、朝鮮半島に住む「大日本帝国臣民」である朝鮮人を戦争に駆り立てた。ところが、戦争が終わると、朝鮮人や「台湾人」のことをさっと忘れ去った。日本民族は、忘れ方がひどい。
補償はしない、「在日」を差別はする、今では新大久保などで、ここに記すことはできないような罵詈雑言をコリアンに浴びせかけている。
そういう日本人の意識に、社会意識としての「帝国意識」がある、ということを話した。もちろん「帝国意識」といっても、日本の場合は、「アジア蔑視」と「西洋崇拝」あるいは「対米隷従」とセットになった「帝国意識」である。だからボクはこれを「日本的帝国意識」と呼ぶ。
そうした意識と闘わなければならないと話したつもりである。
最初に総会が行われていたが、何とも元気のない会合であった。その後に行われたボクの講演で、どうにか元気になって帰って行かれたようだ。ボクは他人にエネルギーを与えられるようなのだ。どんな状態でも、元気であるということを、他人に見られるように生きている結果だろうか。
しかし時に、ボクも誰かからエネルギーをいただきたいと思うことがある。