浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

安倍首相は、嘘をついているのか

2013-06-17 22:50:33 | 日記
 五十嵐仁氏のブログに面白い記事があった。安倍首相が「国民の平均年収を150万円増やす」の「平均年収」の箇所を、「国民総所得」と言ったりしていることをもとに、自民党を「嘘」つきだ、というのだ。


http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2013-06-17

 もちろん自民党は「嘘つき」である。五十嵐氏が指摘する如く、地域によって政策を変えたり、あるいは平気で公約を破ったりするのは、自民党が過去すっと行ってきたことだ。

 しかし、安倍首相は、「嘘」を言っているのか。ボクはそうではないと思う。彼は解らないのだと思う。

 安倍首相の言動を見ていると、総理大臣としての資格をこの人は持っているのだろうかと、思うことがある。祖父と父親が政治家であったこと、その発言する内容が感情的なレベルでナショナリスティックであったこと、それが保守層の空気と合致していたことから、なぜか台頭してきて、いつの間にか自民党総裁となり、そして総理大臣となった。

 国会討論などで、彼の無知ぶりが時々さらされる。しかし彼はそれを恥じらいもしない。恥を感じるためには、無知を無知として認識でなければならない。残念ながら、彼は認識できないのだ。

 そういう人を総理大臣としている日本。これはいったい誰の責任なのだろうか。

 
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歩く

2013-06-17 21:50:53 | 日記
 暑い日が続く。夕方、少し涼しくなる頃、我が家の近くを散歩する人びとの姿がみられる。二匹の犬と共に散歩する女性は、ボクが庭仕事をしていると、時に話しかけてくる。ボクはその女性がどこの人かは知らない。

 その女性は、花壇の花を見て、「この花の名はなんていうの?」などと聞いてくる。ボクは丁寧に答える。話しかけられた後から、ボクは挨拶をするようにした。だが、女性は犬に注意を向けているのか、こちらを見てくれない。だから挨拶は返ってこない。

 女性が引いている二匹の犬は仲が悪いのか、その女性を異なる方向に引っ張ったりしている。また、犬が歩く速度と女性の歩く速度とは、まったく調和が取れていない。女性は、犬の扱いもうまくはない。懸命に犬を引くが、犬も抵抗し、短い距離を長い時間かけて通り過ぎてゆく。相当に手こずっている姿がいつも見られる。二匹の犬とその女性とは、おそらく波長があわずに生活しているのではないかと思った。

 
 そういう視点でみていると、犬を連れている人とその犬との関係は、歩きかたでわかる。あうんの呼吸で歩みを進める飼い主もいる。あるいは飼い主の歩調に、犬があわせたりしている場合もある。

 それは人間同士でも同様だ。

 同じ速度で歩いている人々は、仲が良さそうだ。もちろん、話しながら歩くために歩調をあわせているのだろう。歩調をあわせることは、生きていく上で大切なことだ。だがそれ以上に大切なことがある。

 歩調を合わせようとしなくても歩くことができること、長い間歩いていて、ふと「あっ、歩調があっている!」と気がつくような他者との関係。

 実は、ボクは、そういう経験をしたことがある。遠い昔の話しだ。

 東京の公園を歩いているとき、ふとそれに気がついたのだ。別に歩調を合わせているのではないけれども、同じ歩調で歩いていることに。別に会話をしているのでもないのに・・・。

 人間は皆、時間のなかを歩んで生きて行くのである。にもかかわらず、それぞれの人間の、時間の刻み方、生きるリズムというのは異なっている。

 生まれてから死ぬまでの有限の時間を、ボクたちは生きていかなければならないのである。だからこそ、あわせなくとも、いつのまにか人生の時を刻むリズムが同じという他者、そういう他者との関係こそ、ほんとうは自然でありまた必然なのである。

 だが、そういう他者は、めったにはいない。さがしだすのが、とても難しい。四つ葉のクローバーを見つけだすことが難しいように。


 

 

 
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東京駅で・・・

2013-06-17 13:12:03 | 日記
 一昨日、昨日、上京していた。

 帰途、東京駅を7時26分に出発する「こだま」に乗るつもりだった。新幹線改札口に着いたとき、すでに26分であった。つぎの8時3分の「ひかり」に乗ろうと改札口から入ろうとしたのだが、多くの人が降りてくるので、改札口で待った。

 そのとき、ふと男女二人のペアが眼に入った。男性は明るく話しているのだが、女性(妊娠している?)はとても悲しそうであった。そのうち、女性が男性の胸に顔を埋めた。単身赴任の男性が、どこか地方へ行こうとしていて、奥様が見送りに来たのだろう。ある種のドラマが演じられている、と思った。

 見れば男女のアベックが幾組かいて、それぞれが別れを演出していた。人混みの中でそっと唇をあわせる者たち、明るく手を振りさっと改札口に入っていく男性・・・新幹線に乗っていくのはなぜか男性ばかりだった。

 駅は別れの場であった。

 駅では、人々が次々と通り過ぎていく。集団で通り過ぎる人々、一人で通り過ぎる人・・・・・・・しかし切符は、それぞれが持つ。

 ふとボクは人生を考えた。

 人は、この生の世界へ、どこからかやってきて、そしてこの生の世界から去っていく。生の世界で、人々はそれぞれに様々なドラマを生きる。だがその世界からは、必ず去っていかなければならない。そして去っていった人々は、二度と戻っては来ない。

 6月12日、ボクの友人も去っていった。ドラマを演じた彼は、そのドラマを共に生きたボクたちにたくさんの思い出を残していった。

 その思い出も、しかし、ボクたちが去っていく中で消え去っていくだろう。

 
 ボクは、まだまだ人生の終着駅には行かない。ボクには、まだまだ演じなければならないドラマが残されているからだ。共演者たちが、まだボクを必要としているようなのだ。

 

 
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