浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

自民党憲法草案(その6)

2013-06-26 21:50:58 | 日記
 基本的人権について続ける。

 草案の第13条はこうだ。

第十三条 全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 現行憲法は、

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 草案では、「個人」(individual)ではなく、「人」として尊重されるとされている。自民党の諸兄は、「個人」という語がお好きでないようだ。おそらく他者と異なった独自の存在たる「個人」を避けたいという思いがあるのだろう。individualは、Oxford辞書では、こうある

 a person considered separately rather than as part of a group

  a person who is original and very different from others


自民党の諸兄は、他者とは異なった独自的な存在である「個人」ではなく、家族とか共同体の部分としての「人」のほうがよいと考えたのだろう。


 ところで、『Q&A』では、権利について総括的にこう記している。

権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

 日本の歴史の中で、権利が「徐々に生成」してきたということがどういうことをいうのかよくわからないが、人権を普遍的なものとして位置づけるのではなく、日本的人権ということで考えようとしているようだ。

 他国の人権状況に関し、日本政府も意見するときもあるだろうが、自民党がこういう意見では、人権について何かを言われた国家から、「我が国は○○的人権でやっている」といわれたら、それ以上何も言えないのではないだろうか。人権が普遍的なものであるからこそ、他国の人権状況について抗議したりできるのではないか。

 また『Q&A』では、「公益及び公の秩序」についてこう説明している。

 「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。

 だが、人権を行使するとき、「他人に迷惑を掛け」ることはよくあることだ。たとえば、「表現の自由」の一環であるデモ行進(街頭パレード)をすれば、自動車運転手らに「迷惑を掛け」ることになる。それを「いけない」とすることは、デモ行進が「公益及び公の秩序」を乱すということから禁止されてしまうのではないかと思ってしまう。

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自民党憲法草案(その5)

2013-06-26 12:46:28 | 日記
 今度は基本的人権について書く。

 まず「前文」には、以前にも引用したが、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とある。

 通常の憲法には、こういう内容は記されない。人権は、国家に対して保障を求めるものだからだ。基本的人権を尊重すべきはまずもって国家なのである。もちろん国民同士が基本的人権を尊重しあうことは大切ではあるが、憲法でそれをうたう必要はないのである。

 まあ自民党の憲法草案にそういっても無駄であろう。というのも、『Q&A』において、「日本にふさわしい憲法改正草案とするため、まず、翻訳口調の言い回しや天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直しました」とあるからだ。「天賦人権説」は「日本にふさわしくない」というわけだ。

 だがしかし、国連の人権規約を含め、諸国家の人権規定は、天賦人権説に立っている。国際連盟脱退80年、ついに日本は再び国際社会から出て行くのだろうか。その決意は、現行憲法第97条を削除したことにもあらわれている。自民党は97条を不要と判断したのである。97条とは、

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

まさしく、現行憲法に規定されている人権群は、国境を超えた人類の「多年にわたる自由獲得の努力の成果」なのだが、自民党はそれを認めたくないのであろう。日本には日本らしい人権があるようなのだ。

 さて現行憲法12条は、こうなっている。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 これを次のように変えるというのだ。

第12条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 こうした変更をみると、自民党の方々は、人権保障について快く思ってはいないのではないかと思えてくる。

 だいたいにして、自由や権利に責任が伴うことは理解できるが、義務は当該権利に対応する他者に属するはずだ。たとえば生存権が国民に保障されているのなら、生存権を保障する義務は国家が負うのである。国民に権利があって、義務は国家にあるのだ。義務と権利が同居することはない。

 そして「公共の福祉」にかえて、「公益及び公の秩序」を人権の制約原理としようというのである。「公共の福祉」という語もそれ自体抽象的ではあるが、これについては長年の憲法解釈・学説の蓄積がある。「公益及び公の秩序」ということばで、どういう制約をしようというのか。おそらく「公共の福祉」よりも、人権を広範囲に制約しようという魂胆なのだろう。


 

 
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自民党憲法改正草案(その4)

2013-06-26 08:37:43 | 日記
 ボクがこの草案に違和感を持つのは、こういうこともある。この草案の説明書も言うべき「日本国憲法改正草案Q&A」に現行の日本国憲法についてこう記されている。

 現行憲法は、連合国軍の占領下において、同司令部が指示した草案を基に、その了解の範囲において制定されたものです。日本国の主権が制限された中で制定された憲法には、国民の自由な意思が反映されていないと考えます。

 ボクはこの記述が一つの事実、つまり占領下でマッカーサー司令部によりまず憲法草案が示されたことは認める。だがしかし、なぜそうなったかの説明がいっさいないのも、自民党らしい。知らせたくないことは知らせないという姿勢は、自由を政党名に冠している自民党のいつもの姿である。
 ポツダム宣言を受諾した日本は、大日本帝国憲法の改正を課せられたのだが、しかし政府の周辺にいる人びとには、自ら憲法を作成する、その力がなかったのだ。

 この文の末尾、「国民の自由な意思が反映されていない」というのも疑問である。マッカーサー草案は、議会は一院制であった。それを二院制にしたのは日本人ではなかったか。これは一つの例でしかない。マッカーサー草案はそのまま現行の日本国憲法になったのではなく、20歳以上の男女による選挙によって選ばれた議員たちが国会で十分に審議して日本国憲法として公布された事実をきちんと記すべきではないか。

 ボクは、現行の日本国憲法は「改正」する必要はないという立場だ。自民党の憲法草案は、現行憲法の基本的人権の尊重や平和主義などの原則をなくしてしまう、破壊的なものだと認識している。

 また同時に、現行憲法の制定過程に占領軍が関わっていることは事実であり、その経緯を知ってはいても、良いものはよい、というある種確信みたいなものを持っている。占領軍は白紙の状態で憲法草案を作成したのではないのである。世界の憲法史の流れの中に位置づけられる内容をもっているし(その意味では適当に作成したのではない)、また日本人(鈴木安蔵ら)が作成した憲法研究会案を参考にしてもいる。

 さて、占領下では、現行憲法の制定だけではなく、様々な改革が行われた。自民党の意見だと、「了解の範囲において」作成されたものがよくないというのなら、占領下に行われた農地改革や労働改革、教育改革などもよくないと思っているのだろう。第一次安倍内閣の時、それこそ徹頭徹尾日本人が作成した教育基本法であるにもかかわらず、大きく改悪してしまったのも、その意思があったのだろう。要するに、大日本帝国憲法の時代に戻りたいのである。

 そういう気持ちが出ている。天皇を「元首」にしようというのも、大日本帝国憲法への郷愁のなせる技であろう。
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ことば

2013-06-26 07:51:31 | 日記
 ことばとは、それ自体意味を持つ。それが他者に向けられるとき、意味が伝達される。その場合、伝達しようという内容だけではなく、それに付随したもろもろのことを、時に伝えてしまうことがある。

 他者に何事かを伝えようとするとき、ボクたちはことばを選び出す。ボクたちは伝えようとする何事かを正確に伝えるために、自らの脳に蓄積したたくさんのことばのなかからもっとも適切なものを選び出すのだ。

 しかし、自らの脳には、感情や思考、知識その他諸々のものがあり、それは大海となって存在している。ボクたちは一人ひとり、その大海、すなわち独自の「観念空間」をもっている。それらはことばで整序されているのだが、整序されていないものもある。考えるということは、整序されていることばに、未だ整序されていない何事かを関連づけていくことでもある。考えることをしないと、未だ整序されていない何事かが、「観念空間」の大海に漂流し続けることになるか、あるいは大海の底に沈んでいくかしてしまう。

 何事かを正確に伝達するために、「観念空間」から選び出すことばは、すでに整序されたことばでなければならない。未だ整序されていないことばを選んでしまうと、そこに意図せざる意味をつけ加えてしまうことがある。もちろんことばとしての意味はあるのだが、他者はそのことばのなかに、それが選ばれた後景を考えてしまうことがある。

 ことばに対する感性を磨かなければならない、と思う。同時にことばの大切さ、恐ろしさも。

 ついでに記しておけば、行間にたっぷりと意味をこめた文というものもある。ボクはそれは不得手であるが、ある学者が一般向けに書いた本には、その行間に筆者の思いや情熱が凝縮されていると感じたこともある。その学者は、二つの文体を持っている。純然たる学術論文を書く場合と、そうでない場合と。

 何事かの意味を伝えようとするとき、無意識にことばを選んではならない。無意識に選ばれたことばは、時には刃となりうる。
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