浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

出世城

2013-06-06 21:33:30 | 日記
 今日、金原明善の生家前を通ったら、浜松市の「出世大名家康くん」が、なにやら女性と写真を撮っていた。ボクの実家は、明善の生家と近いから、毎日のようにその前を通る。

 さて浜松市は、「浜松・出世城プロモーション事業」に熱心だ。「家康くん」を大いにつかって、浜松市を売り出そうとしている。まあ勝手にやれば、ということでもあるが、しかし「出世城」で売り出すというのは、どうもすっきりしない。

 
 「出世のまち・浜松」、「サラリーマンの聖地・浜松」ということばにもう唖然としてしまうのだ。

 確かに浜松には、「出世城」という日本酒があり、また浜松城を「出世城」と表すこともある。しかしそれがなぜ「出世のまち」や「サラリーマンの聖地」になるのか。

 浜松城を「出世城」と表す経緯については、よくわからない。ただ言えることは、浜松藩の藩主になった大名が、幕府のなかでも要職に就いていたということもあるだろう。

 浜松藩主は、実際、老中、若年寄、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などの高い地位に就いている。誰でも知っている代表的な藩主は、水野忠邦である。水野は天保の改革を行ったため、教科書に必ず出てくる。

 水野は、肥前唐津藩の藩主であったが、出世したくて、唐津藩よりも収入が少ない浜松藩の藩主に、自ら望んで就任した。彼は出世するために賄賂を渡すなどえげつないことをいろいろやったようで、その結果、老中首座となり、権力の中心に入り込むことができた。浜松藩主になって出世したことは事実だ。

 さて、『広報はままつ』の昨年4月5日号、市長の「浜松城をビジネスマンの聖地に」という文章が掲載されていた。

 しかしそこに間違いがある。次の下りである。

 「・・江戸時代には、浜松城主を務めた人の多くが江戸へ戻り、老中などの重要ポストに就いた・・・」

 「今でいえば、浜松支店の支店長を務めると、東京本社へ戻って取締役になるようなもの」

 先の説明の通り、水野忠邦は浜松藩主でありながら老中だったのである。市長の言い方をまねると、浜松支店の支店長が同時に取締役なのだ。

 市長は日本史をしっかりと学ばなかったようだ。

 江戸幕府の職制は入試にもよく出されるところだ。普通、教科書にも、幕府の職制表があり、たとえば大老や老中、寺社奉行、若年寄、京都所司代、大坂城代などは「譜代大名」が任命され、町奉行や勘定奉行などは「旗本」より任命されるという説明がある。

 浜松藩主は「譜代大名」であったから、老中や京都所司代に任命されたのであって、浜松藩主の後、江戸に戻って老中に就任したわけではない。

 しかし、こんな簡単な間違いを、誰もチェックせずに、『広報はままつ』に載せてしまうなんて。新聞社には「校閲部」というのがある。浜松市も、市長の文章を「校閲」する人を置いたほうがよいのでは。浜松市民として恥ずかしいというしかない。

 なお、こういう理解しか持っていない市長が、「浜松城を大いに発信して」いくというのだが、大丈夫なのだろうか。
コメント
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