昨日、久しぶりに東京へ。娘の結婚式。場所は乃木神社。
乃木希典は、神格化されている。なぜか。おそらく明治天皇の逝去の際、殉死したからだろう。明治天皇も神として、明治神宮に祀られている。
乃木という人物は、日露戦争時、旅順要塞をめぐる戦いで拙劣な作戦で多数の日本兵の死傷者をつくりだした名将ならぬ「迷将」として高名な人物だ。ボクの個人的な意見としては、こういう人物が神とされる神社で結婚式は行いたくないが、娘はボクとは全く異なる人格であり、思想の自由は保障されなければならないから、彼らの選択を妨げることはしない。
昨日の午後、結婚式につきあった。式場のスタッフの言われるままに、あちこちに移動して写真を撮られたり、立たされたり、拍手を強要されたり・・・・・ボクはへそ曲がりなので、こういうのは好きではない。たとえ娘の結婚式であってもである。自らの行動を他人に左右されると、とにかく疲れるのである。
だいたいにして、式というのは、そこに参加している者すべてに何らかの行動が強制される。式次第というものがあり、その次第に沿って「滞りなく」進み、そして終わるというものだ。式は、演出する者がつくったスケジュールに沿って、参加している者すべてが動かされる仕組みになっている。
とくに公的な式、たとえば学校の入学式や卒業式において、入学者、卒業者はそれぞれの式において「主体」だとされてはいるが、実際は「客体」である。式次第に沿って立ったり座ったりさせられる。そこにおける「主体」は、学校の管理職その他である。壇上で話すのは、校長であり、PTA会長であり、来賓である。
そこで確認されるのは、常に支配秩序である。学校では、校長などが偉いと認識させられ、秩序正しく行われる入学式のように、支配秩序にさからわずに生活するという規範がそこで示される。
儀式というのは、当該社会の支配秩序の再確認の場であって、それ以外ではない。特に日本のそれは顕著である。少しの「乱雑」も排除され、参加者は進行スケジュールにそって、ひたすら「客体」として動かされるのだ。
ボクは、だからあらゆる「式」が嫌いである。できうる限り、そういう場には行かないようにしている。
乃木希典は、神格化されている。なぜか。おそらく明治天皇の逝去の際、殉死したからだろう。明治天皇も神として、明治神宮に祀られている。
乃木という人物は、日露戦争時、旅順要塞をめぐる戦いで拙劣な作戦で多数の日本兵の死傷者をつくりだした名将ならぬ「迷将」として高名な人物だ。ボクの個人的な意見としては、こういう人物が神とされる神社で結婚式は行いたくないが、娘はボクとは全く異なる人格であり、思想の自由は保障されなければならないから、彼らの選択を妨げることはしない。
昨日の午後、結婚式につきあった。式場のスタッフの言われるままに、あちこちに移動して写真を撮られたり、立たされたり、拍手を強要されたり・・・・・ボクはへそ曲がりなので、こういうのは好きではない。たとえ娘の結婚式であってもである。自らの行動を他人に左右されると、とにかく疲れるのである。
だいたいにして、式というのは、そこに参加している者すべてに何らかの行動が強制される。式次第というものがあり、その次第に沿って「滞りなく」進み、そして終わるというものだ。式は、演出する者がつくったスケジュールに沿って、参加している者すべてが動かされる仕組みになっている。
とくに公的な式、たとえば学校の入学式や卒業式において、入学者、卒業者はそれぞれの式において「主体」だとされてはいるが、実際は「客体」である。式次第に沿って立ったり座ったりさせられる。そこにおける「主体」は、学校の管理職その他である。壇上で話すのは、校長であり、PTA会長であり、来賓である。
そこで確認されるのは、常に支配秩序である。学校では、校長などが偉いと認識させられ、秩序正しく行われる入学式のように、支配秩序にさからわずに生活するという規範がそこで示される。
儀式というのは、当該社会の支配秩序の再確認の場であって、それ以外ではない。特に日本のそれは顕著である。少しの「乱雑」も排除され、参加者は進行スケジュールにそって、ひたすら「客体」として動かされるのだ。
ボクは、だからあらゆる「式」が嫌いである。できうる限り、そういう場には行かないようにしている。