畑の棉花は、寒風に耐えている。棉花の花は次々と咲いていたが、そのあとはぜて綿花が姿を現すはずであるが、なかなか出てこない。農家の方に尋ねたところ、刈り取って日に干せばはぜるよ、といわれた。そこで今日午後、寒風が吹く中、半分を刈り取った。
その後、棉花が植えられていたところを耕した。スコップで掘り返し、刈った草を敷いた。そのとき、土の中から何匹ものカエルが飛び出てきた。冬眠中だったのに、ボクが起こしてしまったのだ。謝りながら耕し続けた。
そしてブロッコリーの葉を見たら、青虫がはっていた。そういえば、風のない日にもんしろちょうがブロッコリーの葉のあいだを飛び回っていた。卵が産み付けられているのをみつけ、それらを落とした。
雑草は生えてこないから、この時期からの農業はたいへんではない。しかし管理や収穫はしなければならない。
ボクは、夏は汗にまみれ、冬は寒風の中でおこなう農業を好きになっている。農業は、人間と自然との交感(対話)であると思う。自然をいっぱいに感じる。人間も自然のなかにいきていることを感じる。今日も、西の空に美しい夕焼けを見た。この夕焼けを見るたびに、生まれてきてよかったと思う。
しかし現代の一般的な生活では、それが体感されない。それを知らない人々が、都会で政治をやっている。
最近読んだ渡辺京二の『近代の呪い』の一部が、とても気になっている。それは長谷川伸の『足尾九兵衛の懺悔』、石牟礼道子の『西南役伝説』という作品を紹介して、民衆のありよう、つまり国家の大事に対する無関心を指摘し、それこそが当たり前の民衆の生き方であって、「自分たちの生活領域こそ信ずべき実体」であって、それは「上級権力によって左右されない自立性を持っている」、しかしそれが近代によって解体される、という内容であった。
「自立した民衆世界とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむのか、よく知っていて、そのことの上に成り立っている世界」であり、私たちが「遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではな」く、「そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質」であって、自分と共に生きる「他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがら」であるのだが、近代国民国家においてそれが喪われていく。国家によってからめとられていく・・・
国家と無関係に生きていられたら、なんと幸福なことか。
今夜、特定秘密保護法案が衆議院を通過したというニュースに接した。「国家への無関心」でいられた、九兵衛の時代がうらやましいと思った。
その後、棉花が植えられていたところを耕した。スコップで掘り返し、刈った草を敷いた。そのとき、土の中から何匹ものカエルが飛び出てきた。冬眠中だったのに、ボクが起こしてしまったのだ。謝りながら耕し続けた。
そしてブロッコリーの葉を見たら、青虫がはっていた。そういえば、風のない日にもんしろちょうがブロッコリーの葉のあいだを飛び回っていた。卵が産み付けられているのをみつけ、それらを落とした。
雑草は生えてこないから、この時期からの農業はたいへんではない。しかし管理や収穫はしなければならない。
ボクは、夏は汗にまみれ、冬は寒風の中でおこなう農業を好きになっている。農業は、人間と自然との交感(対話)であると思う。自然をいっぱいに感じる。人間も自然のなかにいきていることを感じる。今日も、西の空に美しい夕焼けを見た。この夕焼けを見るたびに、生まれてきてよかったと思う。
しかし現代の一般的な生活では、それが体感されない。それを知らない人々が、都会で政治をやっている。
最近読んだ渡辺京二の『近代の呪い』の一部が、とても気になっている。それは長谷川伸の『足尾九兵衛の懺悔』、石牟礼道子の『西南役伝説』という作品を紹介して、民衆のありよう、つまり国家の大事に対する無関心を指摘し、それこそが当たり前の民衆の生き方であって、「自分たちの生活領域こそ信ずべき実体」であって、それは「上級権力によって左右されない自立性を持っている」、しかしそれが近代によって解体される、という内容であった。
「自立した民衆世界とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむのか、よく知っていて、そのことの上に成り立っている世界」であり、私たちが「遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではな」く、「そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質」であって、自分と共に生きる「他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがら」であるのだが、近代国民国家においてそれが喪われていく。国家によってからめとられていく・・・
国家と無関係に生きていられたら、なんと幸福なことか。
今夜、特定秘密保護法案が衆議院を通過したというニュースに接した。「国家への無関心」でいられた、九兵衛の時代がうらやましいと思った。