浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「国家への無関心」

2013-11-26 23:00:34 | 日記
 畑の棉花は、寒風に耐えている。棉花の花は次々と咲いていたが、そのあとはぜて綿花が姿を現すはずであるが、なかなか出てこない。農家の方に尋ねたところ、刈り取って日に干せばはぜるよ、といわれた。そこで今日午後、寒風が吹く中、半分を刈り取った。

 その後、棉花が植えられていたところを耕した。スコップで掘り返し、刈った草を敷いた。そのとき、土の中から何匹ものカエルが飛び出てきた。冬眠中だったのに、ボクが起こしてしまったのだ。謝りながら耕し続けた。

 そしてブロッコリーの葉を見たら、青虫がはっていた。そういえば、風のない日にもんしろちょうがブロッコリーの葉のあいだを飛び回っていた。卵が産み付けられているのをみつけ、それらを落とした。

 雑草は生えてこないから、この時期からの農業はたいへんではない。しかし管理や収穫はしなければならない。

 ボクは、夏は汗にまみれ、冬は寒風の中でおこなう農業を好きになっている。農業は、人間と自然との交感(対話)であると思う。自然をいっぱいに感じる。人間も自然のなかにいきていることを感じる。今日も、西の空に美しい夕焼けを見た。この夕焼けを見るたびに、生まれてきてよかったと思う。

 しかし現代の一般的な生活では、それが体感されない。それを知らない人々が、都会で政治をやっている。

 最近読んだ渡辺京二の『近代の呪い』の一部が、とても気になっている。それは長谷川伸の『足尾九兵衛の懺悔』、石牟礼道子の『西南役伝説』という作品を紹介して、民衆のありよう、つまり国家の大事に対する無関心を指摘し、それこそが当たり前の民衆の生き方であって、「自分たちの生活領域こそ信ずべき実体」であって、それは「上級権力によって左右されない自立性を持っている」、しかしそれが近代によって解体される、という内容であった。

 「自立した民衆世界とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむのか、よく知っていて、そのことの上に成り立っている世界」であり、私たちが「遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではな」く、「そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質」であって、自分と共に生きる「他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがら」であるのだが、近代国民国家においてそれが喪われていく。国家によってからめとられていく・・・

 国家と無関係に生きていられたら、なんと幸福なことか。

 今夜、特定秘密保護法案が衆議院を通過したというニュースに接した。「国家への無関心」でいられた、九兵衛の時代がうらやましいと思った。
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暴挙

2013-11-26 17:41:55 | 日記
 秘密保護法案が、衆議院を通過するようだ。まったく問題だらけの、日本国憲法の人権規定を無化するような法案が成立してしまう可能性がたかくなった。内容的には、「暴挙」というしかないものだが、残念ながら、「暴挙」を可能にしてしまう議席を与えてしまっている。

 自民党、公明党という極悪政党を、選挙で勝たせてしまった責任は、国民にある。いずれかの時代に、2010年代の歴史を振り返るとき、歴史家は慨嘆せざるを得ないだろう。ボクたちが1930年代の歴史を振り返るときに感じたことを、彼らは感じるだろう。しかしそのとき、「なぜそんな悪政を許したのか」という問題意識ではなく、「今の暗黒時代の初発はどこか」というかたちでの問題意識であったなら、ボクらは未来の日本人に謝罪するしかない。

 歴史に責任を負うこと、歴史を学ぶボクとしては、そのために果敢に闘うしかない。
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