浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「天下国家を論じる」

2013-11-19 20:42:59 | 読書
 渡辺京二の『近代の呪い』(平凡社新書)を読んだ。渡辺の論説は、いつも刺激的である。

 フランス革命のとらえ方の再考を迫る「フランス革命再考」も触発されたが、「近代と国民国家」がもっとも刺激を受けた。渡辺は、近代が「自立的民衆世界」を消した、という。民衆は、本来天下国家を論じるまでもなく、自立的な民衆の世界で生きてきた。しかし、近代国民国家は、民衆に「国民意識」をつくりだし、「天下国家」を意識せざるをえなくなった。

 なるほど、民衆は、本来、天下国家なんか論じたくはないのだ。考えてみれば、天下国家を意識せずに生きていけたら、確かに幸せだろうと思う。ところが、近代は、国家が民衆を、精神的にも、あるいは時には身体的にも、ある意味「虜囚」のようにする。その最たるものは、徴兵である。しかしこれは社会科学的な理解。

 そうではなく、この論考を読んで、ボクは考える。庶民は、今も「天下国家を論じる」という世界には住んでいない。ほとんどの人がそうだ。天下国家を意識せずして、あたかも自立的にいきているように生きている。

 しかし、国家の側は、そういう民衆の意識とは無関係に、国家の側の都合で、民衆を放っておいたり、ときには「虜囚」にする。国家の側からすれば、民衆は操作の対象でしかない。

 国家と民衆の生活との関係を、渡辺の指摘にもとづきながら考えることをしていく必要がある。

 ボクは、若いときから「天下国家を論じる」ことをずっと続けてきた。おそらく、この世を去るときまで、そうしていくことだろう。民衆が生きる世界が、国家から決して自立的ではあり得ない近代・現代の社会のありかたをどうやって、民衆に自覚してもらうか。難しい問題だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする