浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

好戦的な安倍政権

2014-06-05 20:24:35 | 政治
 『琉球新報』の社説。

 戦闘地域に自衛隊 これは「積極的戦争主義」だ

 2014年6月5日


 憲法の意味を一内閣の思惑で勝手に変える解釈改憲に安倍政権は前のめりだ。集団的自衛権の行使だけでなく、海外への自衛隊派遣でも解釈改憲しようとしている。

 政府は、憲法が禁ずる「他国軍との武力行使の一体化」の意味を変え、自衛隊が支援できる内容を拡大する案を与党に示した。

 他国の戦争に巻き込まれる危険性が一気に高まる。外国で自衛隊が血を流すことをどれほどの国民が許容しているというのか。安倍晋三首相の言う「積極的平和主義」の表れだが、これでは「積極的戦争主義」そのものだ。無限定に戦争への道を開く危険な解釈改憲は許されない。

 憲法9条は武力行使を禁じている。ただし、正当防衛に相当する個別的自衛権の行使は、必要最小限なら許されると政府は解釈してきた。だが1992年の国際平和協力法で、「紛争当事者による停戦合意と受け入れ同意」などの条件を満たせば、自衛隊の海外派遣も可能となった。2001年のテロ対策特措法では、停戦合意がなくても、派遣期間中に戦闘行為がない「非戦闘地域」なら派遣可能とした。ただし活動内容は水や食料の補給、医療などに限定する。

 今回の提起は、地域による限定という考え方そのものを取り払うものだ。別途四つの条件を示し、四つともそろった場合だけ「武力行使の一体化」に当たるとみる。条件は(1)現に戦闘中の他国軍への支援(2)戦闘行為との密接な関係-等で、どれか一つでも当てはまらなければ、水や食料どころか、武器弾薬ですら提供可能となる。弾薬も、1カ月後に使うためなら「戦闘行為との密接性」がないので提供可能、となりかねない。

 憲法9条の歯止めをなし崩しにするものだ。これが認められれば9条が禁ずる実質は何一つなくなる。事実上の9条撤廃に等しい。

 しかし4条件など机上の空論だ。86年に国際司法裁判所が出した判決は、武器提供だけでなく「兵站(たん)またはその他の支援」も武力行使に該当すると定めた。日本がどう解釈しようが、支援する他国軍の戦う相手が、自衛隊の活動は武力行使とみなすということだ。すると攻撃され、戦争に巻き込まれることになる。

 政府・自民党はあえて大胆な案を出し、4条件を一つにするなどして譲歩したかのように装い、着地点を探るつもりなのだろう。そんな「偽装」は許されない。



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【紹介】 地球は自滅しつつある?

2014-06-05 20:19:58 | 社会
 驚くべきことが記されているブログを見つけた。世界各地で魚が大量に死んでいるというのだ。今年、日本海を中心として、深海魚が何度か発見された。

 海や川、湖で何かが始まっているのだろうか。

http://oka-jp.seesaa.net/
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つくられた「現在」

2014-06-05 10:02:03 | 近現代史
 秋葉山の山頂には、秋葉神社がある。今それがあるからといって、ずっと昔からあるわけではない。民俗学というのは、「現在」や「現在」生きている人から聞き取りしたことをそのまま記録する。歴史的な検証を必要としない民俗学、その知見に基づいて、「現在」が、ずっと以前から存在していたように思う人が多い。しかし決してそうではない。「現在」は、歴史のなかの「作為」によってつくりだされてきたものでもある。

 明治初期の、強引なまでの「神仏分離」政策の前までは、秋葉山の山頂には「秋葉三尺坊」が神として祀られていた。「三尺坊」であるから坊さんである。その坊さんが「神」として祀られてきたのである。これは怪しむことではない。平安期頃から、日本は「神仏習合」、つまり記紀などに記載された日本の神々は、本当はホトケなんだけれども、神としてあらわれている(本地垂迹説)という考え方が一般的になっていたのである。

 ところで、日本の「記紀」神話は、本質的には「天皇神話」である。神野志隆光も「(記紀は)天皇神話というべきなのである」(『古事記と日本書紀』講談社現代新書、56頁)と記す。「(記紀は)「日本―「日本」は律令国家が創出した国号であり、大八島を国土として天皇の下にある世界をいう―を、成り立ちから確信する為の物語であり、律令国家としてみずからを作りあげたところで、その正当性を主張し、確認することのもとめに対して果たされたものだ。・・・確信しようとする現実とは、端的にいえば、「大国」としての「日本」―帝国的世界―であった」(同書、158頁)。

 白村江の戦いで敗退した倭、壬申の乱で勝利した天武天皇は、「日本」という国号をつくり、「天皇」という称号を設定し、中国をものすごく意識しながら、それにささやかに自己満足的に対抗したいという思いももって、「日本」に対する支配を根拠づけるべく「記紀」を編纂させたのである。そして「記紀」神話は、祭祀と並行関係をもちながら神道として存続した。

 ところが、神道は、それ以後、藤原氏など貴族が支配する社会となって仏教と習合し、武士が支配する時代には、儒教と結合しながら存続してきた。神道には教義がなく、ただ祭祀のみ(今でもそうだが、願いや祈りは捧げるが、神道には宗教としての救済はない)であるから、体系的な教義を持った仏教などに簡単に包摂されたのである。

 近世後期、日本は内憂外患の時代を迎える。外患に対する民族意識が生ずるなかで山崎闇斎が神道に着目し、水戸学、さらに「国学」が誕生する。村落指導者層も、村落の支配秩序動揺のなか、職分委任論(朝廷 →将軍 →大名 →庄屋・名主)をもって「国学」に接近する。

 そのような基盤が醸成されるなか、維新変革があった。岩倉が「天皇陛下は天照皇大神からの絶えることのない血統の御子孫であらせられると日本の国民が信じることは絶対に必要」と語ったように、天皇が日本を統治することの正当性を再生産するためには、何かしらの施策が求められたのである。

 そこで、全国の神社から神仏習合的な要素をなくし、祭神を「記紀」神話とつなげるようにして、天皇統治の正当性を、神社制度を再編成するなかで確立しようとしたのである。

 宮地正人が「一番大事なことは、廃仏毀釈や神仏分離を徹底的にやったのは権力そのもの」(「国家神道の確率過程」、『幕末維新期の文化と情報』所収、名著刊行会、1994年)であったというように、その後国家権力は全国の神社をみずからの支配下におき、神職を国家の官僚組織のなかに組み入れ、もともと天皇支配を正当化するために編纂された「記紀」を新たなテキストとして「再製」させたのである。

 秋葉山から秋葉三尺坊が放逐されて神社とされた背景には、近代天皇制の支配を正当化するために、神社制度を再編成しようとする国家権力の強い意志が働いていたのである。

 秋葉神社の現在の祭神は、「記紀」とつながる「火之迦具土大神」であり、「伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神である」(秋葉神社ホームページ)。

 「現在」には、近代天皇制国家が成立しようとした時期の「作為」がある。


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