浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

侮蔑(2)

2014-06-09 14:38:56 | 社会
 日本国憲法の三原則。これは諸学校でも必ず教えられることである。そのうちの平和主義は、憲法全体でもそれが基調となっているが、とりわけて前文と九条に規定されている。そして憲法は国家の基本法として存在している。基本的な考え方として、すべての法令は、この憲法の規定に反しないようなものでなければならない。これは法律学の基礎である。

 ところが現実には、一見するだけで憲法の精神とは異なる、違憲と判断せざるを得ないような法令が存在する。しかしたとえそうであっても、裁判所は、そのような法令が憲法違反でないとするためには、憲法とその法令が何故に違憲ではないのかを論理的に証明しなければならない。同時に、政府も政府提案の法令が違憲とされないように、事前に内閣法制局が調整をする、つまり論理的に違憲ではないことを証明するために準備しておくのである。実際その論理は、精密に考えていけば随分と怪しいものがある。しかしそれでも、違憲とならないように努力はするのである。

 今回安倍政権がやろうとしていること、つまり集団的自衛権の解釈変更を閣議でやってしまおうという動きは、今まで内閣法制局が積み上げてきた努力を全く踏みにじる行為であって、憲法の解釈を自分の都合のいいように変えてしまうという、法治国家としてその存立基盤を崩壊させるような暴挙である。

 しかし、このような暴挙を認めようという暴論が存在する。

 元検事が、日本は中国や韓国に侮蔑されているという情勢認識を前提に、法律の解釈はいろいろあるのであって、最終的には現実そのものに法解釈がついていくのだ、と語ったのだ。暴論である。

 しかし、こういう主張はわからないわけではない。ボクが法律の勉強よりも歴史の勉強へと方向を変えたのも、そういう認識があったからだ。つまり憲法や法律があっても、権力を掌握している者が、有権的な解釈でもって憲法や法の趣旨を換骨奪胎し、権力者の意図のままに実際の政治を運営する、その運営の中身は、憲法や法の趣旨ではなく、政治勢力の力関係のなかで決められる。だとするなら、政治的な力関係の研究を歴史的に行っていくほうが、学問的には有効ではないかと思ったのである。

 しかしそれを某教授に話したら、そういう側面はあるが、しかし法には法の論理があって、法解釈はまったく自由に行えるものではなく、判例や学説などをもとにした法一般に内在する論理を積み上げていくことが求められる、したがって法の有効性はなくなっているわけではない、というようなことを言われた。そういうものかとは思ったが、ボクはどんどん歴史研究にのめりこんでいった。

 だが今度の安倍政権がやろうとしていることは、今までの判例や学説、積み上げられてきた有権的な法解釈の論理をまったく無視して、独断で解釈変更をしようというもので、法律学的にもまったく認められないものであって、法の安定性を根底から揺るがすものというしかない。

 それを元検事が主張したことに、ボクは驚きを禁じ得なかった。すでに彼は法論理的なレベルを無視した主張をおこなったことから、ボクは侮蔑(1)で記したことを話した。

 彼は今、現在の政治状況などからまったく離れた生活を送っている。本も読まないという。なるほどである。現実をきちんと認識するためには、学ぶこと、考えること、これが必須である。これをしないと、「時流」にながされ、とんでもないところに連れて行かれる。そうした一つの事例を記した。

 この項目は、しかしまだ続く。
コメント
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