浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

天皇制

2014-06-30 10:05:26 | 日記
 今まで天皇について、敬語をつかうことはほとんどなかったが、この文だけは敬語を使用する。

 先日天皇陛下が沖縄を訪問され、対馬丸記念館に足を運ばれ、そして遺族や生存者の方々とことばを交わされた。両陛下は、先の大戦について、特別の思いをもたれていることがよくわかる。

 近年の天皇皇后両陛下が自ら行動で示されているのは、戦争はしてはならない、日本国憲法を変えてはならないというご意思である。

 その例。

 サイパン島を訪問されたとき、天皇皇后両陛下は日本人が悲劇にまきこまれたところだけではなく、植民地支配の下、戦争に協力させられてサイパン島で命を落とした朝鮮人の慰霊碑も訪問された。

 また未だ大日本帝国憲法が制定されない頃、八王子周辺の山奥の集落で庶民の学習と討論のなかで生み出された「五日市憲法草案」を、天皇皇后両陛下がご覧になられた。その時のご感想を、皇后陛下が示されている。

5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html
 この民衆がつくった憲法草案は、人権規定が豊かなことで知られている。色川大吉さんらが発見したもので、ボクもこれには大いに感動したことがある。もう発売されてはいないだろうが、『民衆憲法の創造』や『三多摩自由民権資料集』などにそれは掲載されている。あきる野市のホームページからもそれらの資料を読むことが出来る。
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/database/index.php
 
 古代史の研究者である大山誠一さんは『天孫降臨の夢』(NHKブックス)で、天皇制は、藤原不比等が自ら政治権力を行使すべく、天皇を利用するために構築したシステムであると詳細に論じている。

 確かに、天皇は周辺の政治権力者に利用される存在であった(そうでなく、自ら政治の表舞台へと進み出た天皇もいたが)とみなさざるを得ないような事実は無数に転がっている。

 安倍首相らは、天皇制をどう考えているのだろうか。自民党の憲法草案は、天皇を国家元首と位置づけるなど、天皇制の強化を図ろうとしているようだが、やはり藤原不比等と同様な視点で考えているのだろう。
 
 天皇をほんとうに尊重したいと考えているのなら、改憲はありえない。天皇皇后両陛下の行動は、戦争はしてはならない、改憲すべきではないということを示しているからである。

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笑い

2014-06-30 08:40:28 | メディア
 日本の政治や社会、国際関係が大幅に質的に大きく転換しようとしているとき、何事もないようにテレビはそれぞれの番組を放映している。

 東日本大震災や大きな台風が上陸したときには、通常番組をやめても、全国をつないでそれに関する報道を続ける。

 しかし、集団的自衛権の行使容認という大転換を、テレビは全く無視している。ゴールデンタイムにはいつものおバカ番組を垂れ流し、申し訳程度にニュース番組を遅い時間に流す。日本テレビやテレビ朝日(朝生、たけしのテレビタックル)などは、ニュースをバラエティ番組と認識しているのか、無責任な大言壮語を吐く人士を招いて放言を語らせる。

 そこには、いつも「笑い」がある。しかしその「笑い」は、空虚な「笑い」である。その瞬間に消えてしまう、何の価値ももたない「笑い」である。

 もうかなり前に亡くなったが、飯沢匡という劇作家がいた。飯沢はたくさんの喜劇を書いた。しかしそこに、無意味な「笑い」はなかった。彼が描く「笑い」は、岩波新書で『武器としての笑い』という書名に示されているように、「笑い」を庶民の武器として、権力者の行動を鋭くかつ適切なことばで刺すことによって生ずるものであった。「笑い」という表面にあらわれる感情表現の背後には、ときの政治構造や政治家の振るまいなどが隠されていて、観客が笑ったその瞬間に、観客はその引き起こされた「笑い」のなかに、恐怖や怒りといった別の感情を感じるのであった。

 今、そうした「笑い」はない。テレビ関係者が、自局が放映しているゴールデンタイムの番組を“おバカ番組”と自嘲的に語るように、そこには政治や経済、社会、様々な問題をするっとすり抜けた「笑い」だけがある。

 日本人は、しかし、「武器としての笑い」の伝統を持っていたはずだ。近世でも、狂歌や川柳があった。

 田沼(意次)政治を批判するものが多数生まれている。

 役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

 年号は安く永しと変はれども 諸色高直(高い諸物価)いまにめいわ九
  ※年号を、明和9年に、安永元年と変えた。

 残念ながら、ゴールデンタイムのテレビ番組(もちろんNHKの7時のニュースにも)に、そうした「笑い」は皆無である。

 ただ言っておけば、ナベツネに支配されている『読売』、『産経』を除いては、新聞各紙はこの日本の大転換期を何とかしようという報道を繰り広げている。残念ながら、新聞を読む人口は、確実に減っている。

 日本の将来は、無意味な「笑い」に覆われ、その「笑い」のウラで、日本以外のどこかの戦場で、日本人が殺され、日本人が殺すという残酷が行われるようになるのだろう。

 そのとき、もっとも笑う者が、みずからは戦場に行かない、安倍、石破、村、そして山口(公明党)・・・・・そして都議会で下品なヤジをとばした輩、大企業の経営者、官僚たちなのだろう。

 他方で、庶民の「笑い」は確実に奪われていく。

 後から気がつくというのは賢明ではないのだが、庶民は突然みずからが当事者となったときにはじめて気がつく。想像力と知識が不足していたことを気づく。

 この後を想像できる賢明な人々こそ、今声を上げなければならない。「武器としての笑い」で日本全国を覆わなければならない。

 1945年、日本(人)は、真実を知り、怒り、反省し、後悔した。もう一度それを繰り返してはならない。
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働く人、働かない人

2014-06-30 00:15:16 | 日記
 「給料泥棒」ということばがある。働かないで給料をせしめる人のことをいう。

 実際職場にいると、仕事を出来るだけさぼろうとする人、一生懸命やろうよしているのだが、なかなか仕事が進まない人、必ずそういう人がいる。

 子細に見ると、それは事務能力の有無に関わるようだ。つまり事務能力のない人がいるのだ。事務能力がないと、仕事を合理的に処理していくということができない。

 たとえばー

 今の職場では、コンピュータが使えなければ、仕事をすることができないという状況だが、ボクが働いている時代は、徐々にコンピュータが入り込んでくるという時期であった。そのとき、進取の精神でコンピュータの技術を何とか自分のものにしたいと勉強する人、そういうものは苦手だからと手を出さない人、いろいろな人がいた。しかし、職場全体でコンピュータをつかって情報を集中させるという方向に動いてきたとき、個々の労働者はコンピュータに習熟する必要に迫られた。しかし、それでもなかなか習熟出来ない人がいた。

 コンピュータにデータを打ち込めない人がいた場合、どうしたか。ボクはまず教えてあげた。だが元来そういう人は、積極的に仕事をしようという意欲が強いわけではない。だからなかなか覚えない。何度か教えたあと、それでも覚えない場合、ボクは打ち込みの仕事をかわりにやってあげた。なぜか。教えるよりやってしまったほうが楽だからだし、早く片付く。

 さて、そういう人を、ボクは批判したかというと、もちろんこうしたほうがよいなどと助言はした。しかし「給料泥棒!」などと非難することはしなかった。

 この社会は、いろいろな人間が生きている。たとえば、心身に障がいをもっている人のことを想像してみると、障がいのない人と同じレベルで仕事をすることはなかなか難しい。しかし当然の如く、すべての人間は生まれながら幸福追求の権利をはじめ、すべての権利をもっている。しかし障がいのある人の場合など、権利を保障するためには、障がいのないひとと平等ではなく、個々の状態にあわせて何らかの援助が与えられなければならないのだ。

 社会には、いろいろな人がいるから、それぞれがそれぞれのもつ力を出し合って、協調してその社会を支えていくのである。だから、仕事が遅い人、ある分野が出来ない人、そういう人がいても、「給料泥棒」なんていわないで(非難なんかしないで)、助け合っていくべきなのである。

 職場によっては、仕事ができないからという理由で相手にしなかったり、無視するということもあるようだ。しかし働く場は、労働者同士がいがみあってはいけないのだ。

 事務能力がないというのも個性であるし、事務能力があるというのも個性なのだ。そうした個性が混じり合って社会は存在するのだ。

 他の例を出そう。民主的な税制度は、応能負担の原則だとされる。たくさん所得のある人がたくさん税を納めて、少ない所得の人は少しの税を納める、あるいは税を納めないで国家から逆に生活保護などを支給される人もいる。国家など公的権力は、そうすることによって、平等な社会をつくるのである。

 事務能力が低い人、仕事をさぼろうとする人がいても腹を立てるな。助け合いながら、それがずっと一方的であるかも知れないが、とにかく労働者は助け合って、連帯しなければならないのである。怒りではなく、助言と手助けを。

 能力主義的な発想、労働者はそれに賛同するべきではない。能力主義は、いつかはみずからに刃となって振り下ろされることもあるのだ。
 
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