NHKスペシャル「民族共存へのキックオフ~"オシムの国"のW杯~」をみた。サッカーが民族対立を超えるシンボルとなっている姿を知った。スポーツの可能性を示すもので、見て考えさせられた。
ユーゴスラヴィアという国があった。第二次大戦後、チトーという大統領が、異なる民族や宗教の人々とともに、ひとつの国をつくっていた。
チトーが亡くなってから、ユーゴスラヴィアは分裂し、内戦を起こし、そして殺しあった。今は、内戦もなくなり、平和な日常が戻っているようだ。しかし、民族や宗教が異なるという、それだけで殺しあったそのことが、憎悪として残されている。もちろん表面にはでてこないかもしれないが、しかし憎悪は確実に存在する。自分の家族が殺されたという事実、この事実は消えないからだ。こういう憎悪が徐々に歴史のなかに消え去っていくためには、相当長い時間がかかる。
今まで一緒に仲良くコーヒーを飲んでいた人びとが、一方は殺す側に回り、他方は殺される。この理不尽。本来殺しあう必要はまったくなかったはずなのに。
そこには、民族の違いをことさらに強調して対立をつくり出し殺しあいをさせ、それを政治的に利用した誰かがいるはずだ。
戦争は、いかなる名前がつけられようとも、どういう理由が掲げられようとも、その本質は殺しあい、破壊し合うことだ。その戦いが終わった後でも、憎悪は残る。
だからこそ、戦争は、決して、してはならない。「平和のための戦争」という矛盾した言い方があるが、「平和のため」という肯定すべきことばがくっついてはいるが、それであっても戦争は戦争なのだ。
サッカーというスポーツ、時には浦和レッズによる排外主義的な動きもあるが、ボスニアの例のように、民族間の対立を超える役割も果たすことが出来る。
ただ、そこにオシムという人物の存在が必要であった。スポーツだけに専念するのではない、知的な思慮深い人物がいた。
スポーツも、そういう人材を育成すべきだ。勉強させないで、読書をさせないで、ひたすら部活動に専念させる大人たち。彼らの多くは、勉強や読書の楽しさを知らないままに生きていく。
日本には、オシムのような人は生まれないかも知れない。
ユーゴスラヴィアという国があった。第二次大戦後、チトーという大統領が、異なる民族や宗教の人々とともに、ひとつの国をつくっていた。
チトーが亡くなってから、ユーゴスラヴィアは分裂し、内戦を起こし、そして殺しあった。今は、内戦もなくなり、平和な日常が戻っているようだ。しかし、民族や宗教が異なるという、それだけで殺しあったそのことが、憎悪として残されている。もちろん表面にはでてこないかもしれないが、しかし憎悪は確実に存在する。自分の家族が殺されたという事実、この事実は消えないからだ。こういう憎悪が徐々に歴史のなかに消え去っていくためには、相当長い時間がかかる。
今まで一緒に仲良くコーヒーを飲んでいた人びとが、一方は殺す側に回り、他方は殺される。この理不尽。本来殺しあう必要はまったくなかったはずなのに。
そこには、民族の違いをことさらに強調して対立をつくり出し殺しあいをさせ、それを政治的に利用した誰かがいるはずだ。
戦争は、いかなる名前がつけられようとも、どういう理由が掲げられようとも、その本質は殺しあい、破壊し合うことだ。その戦いが終わった後でも、憎悪は残る。
だからこそ、戦争は、決して、してはならない。「平和のための戦争」という矛盾した言い方があるが、「平和のため」という肯定すべきことばがくっついてはいるが、それであっても戦争は戦争なのだ。
サッカーというスポーツ、時には浦和レッズによる排外主義的な動きもあるが、ボスニアの例のように、民族間の対立を超える役割も果たすことが出来る。
ただ、そこにオシムという人物の存在が必要であった。スポーツだけに専念するのではない、知的な思慮深い人物がいた。
スポーツも、そういう人材を育成すべきだ。勉強させないで、読書をさせないで、ひたすら部活動に専念させる大人たち。彼らの多くは、勉強や読書の楽しさを知らないままに生きていく。
日本には、オシムのような人は生まれないかも知れない。