浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「日本国憲法」

2014-06-18 21:39:45 | 日記
 毎月一回、ある施設でいろいろなことを話す。参加者は10人程度だ。歴史について話して欲しいと頼まれたが、最近の政治状況から、現在の政治について話すことが多い。

 明日は「日本国憲法」について話そうと思う。その前に、ジャン・ユンカーマン監督の「映画日本国憲法」を上映する。

 このDVD,帯に吉永小百合さんの「日本が世界一強力で素晴らしい武器を持っていることを知っていますか。それは憲法第9条です。『映画日本国憲法』をみて下さい。世界一の武器の秘密を教えてくれます」ということばがある。

 ボクは、憲法第九条のことを「武器」とたとえることに違和感を持つが、気持はわかる。

 今、日本には、日本に誇りを持ちたいという人が増えているそうだ。そのために、南京虐殺はなかったとか、「従軍慰安婦」は「売春」だから問題ないのだとか、日本が過去行ってきた非人間的な行為を否定する(つまり歴史を偽造することだ)動きがある。

 だが、南京虐殺はなかったといくら言っても、その事実はすでに国際的に認知されたことなのだ。いくら日本国内で「なかった」という声を強めても、国内では「そうなのか」という人はいるかもしれないが、国外ではまったく相手にされない議論であることを、その人たちは知っているのだろうか。また「従軍慰安婦」についても、強制的に連行されたかどうかの有無だけが問題ではなく、女性を兵士の性的処理の「道具」としたこと、日本軍が制度的に、そうした女性の、人間としての尊厳を冒涜したことが問題なのである。

 否定できない歴史の事実を、否定する(歴史をねつ造する)ことにより、日本に誇りをもつことはできるのだろうか。

 日本には、そんなことをしなくても、誇れることがたくさんあるではないか。自然で言えば、あの富士山。富士山の美しさは、いつみても感動を覚える。世界各地から、富士山を見に外国人が来ている。「どうだい、美しい山だろう!」と誇れないか。日本には、美しい自然がたくさんある。

 文化的なことをいえば、世界最古と言われる木造建築・法隆寺、歌舞伎や能狂言、そして世界的に名が通った文学者たち、漫画・アニメ・・・・誇ることが出来るものはいっぱいある。

 そしてこの「日本国憲法」。

 わざわざ歴史を否定しなくとも、世界に先駆けて平和を訴えた日本国憲法、これこそ、世界に誇ることができるものだ。

 内向きの情けない議論はやめて、世界に向けて誇れるものを見つめようではないか。

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長野県 中川村 村長の式辞

2014-06-18 21:25:00 | 政治
 みずからの考えを、このようにしっかりと語る首長は、ほとんどいないだろう。内容がよいと、格調も高くなる。


2014年 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式 式辞

2014年6月6日

 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式を挙行いたしましたところ、ご多忙の中、上伊那地方事務所長様はじめ、ご来賓各位、御遺族の方々など、大勢の皆さんのご列席を賜り、真にありがとうございます。

 さて、昨年の追悼式の後、中川村遺族会の会長と幹部の方々が、抗議文を携えて、役場に来られました。
 その時の会談は、音声データで村のホームページに挙げてありますので、お聞きになった方もおられるでしょう。
 頂いた抗議は、大きくは2点です。
 ひとつは、私の式辞に、遺族の皆さんの悲しみや御苦労に対する言葉がなかったという点。これに関しては、近頃の政治の動きに気をとられ過ぎて、配慮が足りなかったと反省を致しました。私は、母一人、子一人の家庭で、母の苦労を見て育ちましたが、大黒柱を突然奪われた御遺族の方々の悲しみとご労苦は、その比ではなかったと推察申し上げます。
 抗議の二つ目は、国旗の掲示がなかった、という点です。こちらについては、会談の際に私の考えをお伝えし、村ホームページにも文章を掲載していますが、3月にもう一度遺族会役員の方々とお話をして、遺族の皆さんのお気持ちもお聞きしましたので、本年は、私の考えを聞いて頂きつつ、ご覧のとおり国旗を掲示することに致しました。

 確かに、戦没者追悼式では、国旗を掲げるのが一般的です。それはなぜかというと、国のためになくなったのだ、と示すためだろうと思います。
 しかし、日清戦争から先の敗戦に至る一連の戦争・事変は、日本のためになったのでしょうか。戦場となった国々では、多くの人々が犠牲になり、甚だしい迷惑をかけ、被害を与えました。日本は、今に至るまで周辺諸国と良好な関係を築くことができずにいます。日本の側でも、多くの兵士がジャングルなどの過酷な環境に送り込まれ、飢えや病気で次々となくなりました。夢と希望にあふれた膨大な数の若者を失い、日本にとってどれだけの損失となったことでしょうか。そして、愛するお父さんや兄弟を亡くした遺族のみなさんは、悲しみにくれる間もなく、生活のために大変なご苦労を背負いこまねばなりませんでした。沖縄で、東京他大空襲で、また原爆投下によって、大勢の一般庶民も亡くなっています。つまり、戦争は、まったく国家、国民のためにならなかったのです。
 戦争とは、一部の人たちが、自分達の思惑のために、国民の命と身体と税金を使って始めるものであり、それは、歴史の変わらぬ事実です。
 しかし、国旗が掲げられることによって、あたかも戦争が国のためであるかのように思わせます。つまり、国旗は戦争の実態に蓋をして、隠してしまうのです。

 昨今の政治状況について言えば、深い議論を重ねた上で、正式の手続きを踏んで、憲法変更の是非を国民に問うのではなく、安倍政権は、恣意的な憲法解釈の変更によって、日本を、戦争をする、ありふれた、志のない国にしようとしています。その裏には、どういう思惑があるのでしょうか。愛国を掲げることで、その思惑も隠されています。国や国旗を隠れ蓑として利用しているのだと思います。
 特に今、集団的自衛権の必要が喧伝されています。しかし、戦況の情報を米軍が握り、首都東京の周囲に座間、横田、横須賀、厚木などの米軍基地が居座る状況では、自衛隊は、実質的に米軍の指揮命令下に入るしかありません。つまり、集団的自衛権とは、日本の若者を、日本国民の税金で訓練して、米国から購入した高額の兵器とともに、米軍の戦場に差し出すことです。これでは、愛国どころか、何重にも売国的だと言わざるを得ません。

 亡くなった日本の兵士たちは、「鬼畜米英」と教え込まれ、「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩きこまれました。もし、このような今の日本の状況を見れば、「米国にこれほどまでにおもね追従するのであれば、あの時、なぜ自分達を、あれほどに餓えさせ、あのような意味のないバンザイ突撃をさせる必要があったのか」と、憤りの叫びを挙げることでしょう。

 今の状況がこのまま進んで、集団的自衛権が現実のものになれば、自衛隊の若者が戦場で亡くなるのも、現実のこととなります。もしそうなれば、自治体でも、かつてのように村葬をすべきだ、という声が上がるでしょう。
 村長は弔辞で、国のために命を捧げた自己犠牲を讃え、お母さんは、悲しみを押し殺して、感謝の挨拶をすることになります。そして、ひとりの若者の死が、「国のために」死のうとする多くの若者を獲得することに利用されるのです。

 私は、そんな村葬はぜったいにやりたくありません。戦没者・戦争犠牲者のみなさんも、そんな村葬を見ることは嫌だろうと思います。この式典に、新たな遺族を迎えいれるようなことは、あってはなりません。
 日本が大きな分かれ道に立っている今、掲げられた国旗はなにに蓋をしているのか、そのむこうにはどんな思惑が隠されているのか、透かし見る努力が必要だと思います。

 日本を平和な国として保ち、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存できるように全力を挙げて努力する、そういう誇りにできる国にすることによってこそ、戦没者・戦争犠牲者のみなさんに穏やかに安らいで頂くことができると信じます。
 その努力を村民の皆さんとともにお誓い申し上げ、中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式式辞と致します。有難うございました。


中川村長 曽我逸郎
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進歩

2014-06-18 07:59:09 | 近現代史
 歴史は進歩する、徐々によくなっていくという、そういう気持ちがどこかにあった。しかし21世紀になって、そういう気持ちが萎えてきている。というのも、世界各地の政治状況や、日本国内の状況をみると、様々な面で、人類は歴史に逆行していると思わざるを得ない。

 たとえばイラク。イラクでは武装勢力とイラク政府との間で激しい戦闘が起きているという。イラクの混乱の出発は、アメリカによる正当性をいっさいもたない武力攻撃によってフセイン政権が倒されたことに始まる。それ以後、イラクの人々は、安心して生活することができない、アメリカが投下した放射性物質を大量に含んだ爆弾により、子どもたちに様々な奇形を生み出したり・・・この事態を招いたアメリカに対して怒りをもっても、悲惨な現状はもう変えることはできない。またアメリカは政府としてはイラクから手を引いているようだ。

 しかしイスラム教という宗教は、本来的に問題があると思うようになった。町田の住人は「男の宗教だ」と言っていたが、その通りだ。女性の人権が、イスラム教国の多くでは保障されていない。とりわけて、原理主義的な宗教政策をとっている国では、それが徹底している。

 そしてシーア派とスンニ派との間の死闘。それが同じカミの名によって正当化される。

 アフリカでたくさんの女学生が拉致された事件を引き起こしたのも、イスラム原理主義者のようだ。

 1648年、ヨーロッパでウエストファリア条約が締結されて、武力というものは国家が独占するものであるという共通認識が生まれた。それ以降は、戦闘というと国家間でなされるものとなっていた。

 しかし、今はこの条約以前に戻っている。世界のあちらこちらで、武器を持った勢力が蛮行を繰り広げている。

 そしてボクはここを強調したいのだが、そうした勢力を育て、支援してきたのが、アメリカという国家であることだ。アメリカは世界の秩序の守護神であるかのような顔をして、世界の秩序を破壊してきた。それもおのれ自身の国家的利益のために、である。「敵の敵は味方」という論理、アメリカのいうことを聞かない国家(政府)を潰すために、その政府に反対する勢力にカネや武器を渡し、そして混乱に陥れる。

 今日本は、そうしたアメリカという国家が起こす戦争に、「集団的自衛権」という悪魔のことばをつかって、日本の若者たちを参加させようとしている。

 日本も進歩ではなく、過去へと後戻りしようとしているようだ。様々な事件や紛争が起きる、それを反省して教訓化する、そしてよりよい社会をつくる、それが人類の歴史であると思っていた。だが、人々の血や汗をもとにつくりだされた教訓、日本の場合は日本国憲法にこめられているのだが、それが消え去ろうとしている。

 進歩ではない、退歩である!
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