浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

音のない絵画

2014-06-08 22:17:55 | 日記
 絵画に音が存在するわけがない。どこの美術館に行っても、ほとんど話す人もなく静かに人々は絵を鑑賞している。

 だがボクは、絵と音が共存しているのを感じた。ただし絵といっても、版画である。

 ジャック・カロという版画家がいた。日本でいったら江戸時代の初めの頃、カロは1592年に生まれ、1635年に亡くなった。版画はすべてモノクロである。

 国立西洋美術館で、「ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場」という展覧会があった。東京にいったついでに、美術館などをめぐる。本当は、バルテュス展に行くつもりであったが。、西洋美術館の前を通った時、看板を見て興味をもった。

 会場に入って、カロの作品を見始めて、その絵のなかに音が描かれていることを感じた。その音とは、楽器の音であり、人々の喧噪であったり、戦闘の音であったり・・・さまざまな音が描かれていた。実際の音はないけれども、ボクはその絵のなかに音をみていった。

 ボクはシャープペンシルを片手に、メモをとりながらみていった。途中、係員から「この鉛筆をお使いください」といわれた。ボクは「これ、シャープペンシルですよ」といったら、「シャープもダメなんです」だって。ボクは素直に従った。

 ボクのメモには、こうある。

 人間の活動は常に音を伴う。絵画には音がない。しかし、画面のなかから、ほとばしる音は存在する。

 〈インプルネータの市〉市であるから、そこにはたくさんの人が集っている。しかしその絵の全体は、海のようだ。人々の集団が、波頭のようにうねっているのだ。おそらく、人々の喧噪がそこにはある、と同時にボクは波の音まで感じてしまった。

 カロの絵には、音がある、音が描かれている、と。

 その象徴的な絵が、「聖母の勝利」(?)である。聖母の周囲には、楽器を演奏している人々がしっかりと描かれている。

 しかし、こうした「絵師」も、絵を飯の種にしながら、食っていかなければならない。そういう生き方を選んでしまった。そのためには、手っ取り早い方法がある、王家や貴族のお抱えになればよい。カロはもちろん、それをめざす。

 彼の絵には、そのような絵がある。AKB48ではないが、絵のセンターに、依頼された人物を大きく描く、あるいはシンメトリーをつかって強調する。だがそれは、ある意味で奴隷的でもある。

 彼の絵には、「アウトサイダー」を描いたものがある。放浪している楽士や、乞食、そして「ジプシー」である。ボクは思うのだ、なぜこういう人たちの絵を描いたのか、それは自らの奴隷的境遇を自嘲的に表現しようとしたのではないか、と。

 そして「戦争」を描いたものがある。処刑の絵。銃殺刑、車裂き刑、絞首刑、火刑・・・・、軍隊による略奪の光景、「農民たちの復讐」、そして「報償の分配」。

 いつの時代でも戦争に必ず付随するものばかり。カロは、しかしそれを批判的に描いているのではない。戦争の事実を、まさに事実だから描くのだ。

 最後の部屋には、「風景」の絵が並ぶ。 「戦争」に付随するから処刑を描く、そうした風景があるから描く。

 カロの展覧会、「リアリズムと奇想の劇場」とうたっている。まさにリアリズムである。だが、リアリズムであるが故に、それは同時に「奇想」なのだ。実際に存在する光景や事実を切り取る、その行為は「奇想」以外のなにものでもない。リアルを奇想で描くと、奇想にもなるし、リアルにもなる。

 「絞首刑」という絵。絵の中心には木がある。その木の両側に伸びる枝にはたくさんの人々が吊る下がっている。その木には梯子がかけられ、おそら司祭者だろう、十字架をかかげている。これもリアルでありまた奇想だ。

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侮蔑(1)

2014-06-08 17:18:42 | 社会
 日本は中国や韓国に侮蔑されている、という強硬な意見を聞いた。

 これにはきちんと反論したが、ここにそれを記すとなると、厖大な字数になるので、要点だけを記す。

 まず、日本は、東アジアの一国家として存在しており、周辺の国々とは、今後のこの状態のまま存在するしかない。東アジアがいやだから引っ越すというわけにはいかないのである。

 だとすると、敵対的な関係をずっと続けていくのかというと、それも不可能である。

 というのも、まず日本は中国や韓国とは、お互いに無視できないほどの経済的な関係を結んでいる。経済的な関係からすれば、平和共存して相互に経済的利益を引き出すことが、双方ともの「国益」であることは疑いない。

 もし日中間に武力衝突が起きたら、そのような経済的な関係が麻痺して、双方ともに大きな打撃を受ける。

 同時に、もし日中間の武力衝突が起きた時には、米軍は日本とともに中国と戦うかというと、それも無理である。なぜなら、中米関係も政治的・経済的に深い関係にあり、経済的な視点から見れば、アメリカ国債をもっともたくさん保有しているのは中国であるし、同時にアメリカ企業も多数中国に進出している。日本のために、アメリカの国益をマイナスにすることなど、まったく考えられない。アメリカは、「国益」のためには、何でもする国家である。たとえば他国には自由貿易を求め、自国では当該産業を保護するために関税はかけるし、補助金もだす、そういうことを平気でやる国家である。
 
 また来日したオバマが、日中間の関係を憂慮する発言をしていたことを思い出そう。アメリカは、日中間の紛争に巻き込まれたくはないのだ。

 さて日中間の対立に火をつけたのは、尖閣問題である。尖閣諸島の領有権については、100%中国、あるいは100%日本に帰属するとは言えない、そういうところである。なぜかというと、領土としての価値が低かったために、領有権を明確にしてこなかったのである。したがって、日中国交回復時に、この問題を棚上げにしておくということは大人の対応であると同時に、日本側にとっては日本が実効支配をしていたのであるから、トクといえる裁定であったのだ。そのような日本がトクだった関係を、いったい誰が壊したのか。それは日中関係を敵対関係に転化させたかった、石原東京都知事である。まさに小児病的な対応であったといわざるをえない。

 いずれにしても、もし日中間で「戦争」が起きれば、今度も日本は負ける。1945年に終わった戦争も、日本が負けたのである。今後はそれ以上に、中国本土を日本兵に荒らされ、殺され、略奪を受けた中国人が、ある種の「復讐」的な強い意志で挑みかかったくるであろう。

 だとすると、中国とは平和共存しかないのである。永遠に、日中両国は東アジアに存在し続けるのである。そういう国家が、いがみ合っていても、トクはない。

 したがって、武力衝突を避けながら、相互に利益を引き出しうる関係をどのように構築していくのか、これが「国益」という観点からの理性的な対応なのである。

 最近中国が「偉そうだ」などと、感情的な反応がある。たしかに南シナ海などでの中国の振る舞いは、とても容認できるものではない。しかし、その被害に遭っているベトナムもフィリピンも、話し合いで解決をと言っている。その通りである。話し合いで解決する、そのためには、日本は東南アジア諸国やさらには欧米諸国とも協調しながら、中国の目に余る行為を抑えていくという選択肢、これ以外の有効な手段はないのである。

 
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