絵画に音が存在するわけがない。どこの美術館に行っても、ほとんど話す人もなく静かに人々は絵を鑑賞している。
だがボクは、絵と音が共存しているのを感じた。ただし絵といっても、版画である。
ジャック・カロという版画家がいた。日本でいったら江戸時代の初めの頃、カロは1592年に生まれ、1635年に亡くなった。版画はすべてモノクロである。
国立西洋美術館で、「ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場」という展覧会があった。東京にいったついでに、美術館などをめぐる。本当は、バルテュス展に行くつもりであったが。、西洋美術館の前を通った時、看板を見て興味をもった。
会場に入って、カロの作品を見始めて、その絵のなかに音が描かれていることを感じた。その音とは、楽器の音であり、人々の喧噪であったり、戦闘の音であったり・・・さまざまな音が描かれていた。実際の音はないけれども、ボクはその絵のなかに音をみていった。
ボクはシャープペンシルを片手に、メモをとりながらみていった。途中、係員から「この鉛筆をお使いください」といわれた。ボクは「これ、シャープペンシルですよ」といったら、「シャープもダメなんです」だって。ボクは素直に従った。
ボクのメモには、こうある。
人間の活動は常に音を伴う。絵画には音がない。しかし、画面のなかから、ほとばしる音は存在する。
〈インプルネータの市〉市であるから、そこにはたくさんの人が集っている。しかしその絵の全体は、海のようだ。人々の集団が、波頭のようにうねっているのだ。おそらく、人々の喧噪がそこにはある、と同時にボクは波の音まで感じてしまった。
カロの絵には、音がある、音が描かれている、と。
その象徴的な絵が、「聖母の勝利」(?)である。聖母の周囲には、楽器を演奏している人々がしっかりと描かれている。
しかし、こうした「絵師」も、絵を飯の種にしながら、食っていかなければならない。そういう生き方を選んでしまった。そのためには、手っ取り早い方法がある、王家や貴族のお抱えになればよい。カロはもちろん、それをめざす。
彼の絵には、そのような絵がある。AKB48ではないが、絵のセンターに、依頼された人物を大きく描く、あるいはシンメトリーをつかって強調する。だがそれは、ある意味で奴隷的でもある。
彼の絵には、「アウトサイダー」を描いたものがある。放浪している楽士や、乞食、そして「ジプシー」である。ボクは思うのだ、なぜこういう人たちの絵を描いたのか、それは自らの奴隷的境遇を自嘲的に表現しようとしたのではないか、と。
そして「戦争」を描いたものがある。処刑の絵。銃殺刑、車裂き刑、絞首刑、火刑・・・・、軍隊による略奪の光景、「農民たちの復讐」、そして「報償の分配」。
いつの時代でも戦争に必ず付随するものばかり。カロは、しかしそれを批判的に描いているのではない。戦争の事実を、まさに事実だから描くのだ。
最後の部屋には、「風景」の絵が並ぶ。 「戦争」に付随するから処刑を描く、そうした風景があるから描く。
カロの展覧会、「リアリズムと奇想の劇場」とうたっている。まさにリアリズムである。だが、リアリズムであるが故に、それは同時に「奇想」なのだ。実際に存在する光景や事実を切り取る、その行為は「奇想」以外のなにものでもない。リアルを奇想で描くと、奇想にもなるし、リアルにもなる。
「絞首刑」という絵。絵の中心には木がある。その木の両側に伸びる枝にはたくさんの人々が吊る下がっている。その木には梯子がかけられ、おそら司祭者だろう、十字架をかかげている。これもリアルでありまた奇想だ。
だがボクは、絵と音が共存しているのを感じた。ただし絵といっても、版画である。
ジャック・カロという版画家がいた。日本でいったら江戸時代の初めの頃、カロは1592年に生まれ、1635年に亡くなった。版画はすべてモノクロである。
国立西洋美術館で、「ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場」という展覧会があった。東京にいったついでに、美術館などをめぐる。本当は、バルテュス展に行くつもりであったが。、西洋美術館の前を通った時、看板を見て興味をもった。
会場に入って、カロの作品を見始めて、その絵のなかに音が描かれていることを感じた。その音とは、楽器の音であり、人々の喧噪であったり、戦闘の音であったり・・・さまざまな音が描かれていた。実際の音はないけれども、ボクはその絵のなかに音をみていった。
ボクはシャープペンシルを片手に、メモをとりながらみていった。途中、係員から「この鉛筆をお使いください」といわれた。ボクは「これ、シャープペンシルですよ」といったら、「シャープもダメなんです」だって。ボクは素直に従った。
ボクのメモには、こうある。
人間の活動は常に音を伴う。絵画には音がない。しかし、画面のなかから、ほとばしる音は存在する。
〈インプルネータの市〉市であるから、そこにはたくさんの人が集っている。しかしその絵の全体は、海のようだ。人々の集団が、波頭のようにうねっているのだ。おそらく、人々の喧噪がそこにはある、と同時にボクは波の音まで感じてしまった。
カロの絵には、音がある、音が描かれている、と。
その象徴的な絵が、「聖母の勝利」(?)である。聖母の周囲には、楽器を演奏している人々がしっかりと描かれている。
しかし、こうした「絵師」も、絵を飯の種にしながら、食っていかなければならない。そういう生き方を選んでしまった。そのためには、手っ取り早い方法がある、王家や貴族のお抱えになればよい。カロはもちろん、それをめざす。
彼の絵には、そのような絵がある。AKB48ではないが、絵のセンターに、依頼された人物を大きく描く、あるいはシンメトリーをつかって強調する。だがそれは、ある意味で奴隷的でもある。
彼の絵には、「アウトサイダー」を描いたものがある。放浪している楽士や、乞食、そして「ジプシー」である。ボクは思うのだ、なぜこういう人たちの絵を描いたのか、それは自らの奴隷的境遇を自嘲的に表現しようとしたのではないか、と。
そして「戦争」を描いたものがある。処刑の絵。銃殺刑、車裂き刑、絞首刑、火刑・・・・、軍隊による略奪の光景、「農民たちの復讐」、そして「報償の分配」。
いつの時代でも戦争に必ず付随するものばかり。カロは、しかしそれを批判的に描いているのではない。戦争の事実を、まさに事実だから描くのだ。
最後の部屋には、「風景」の絵が並ぶ。 「戦争」に付随するから処刑を描く、そうした風景があるから描く。
カロの展覧会、「リアリズムと奇想の劇場」とうたっている。まさにリアリズムである。だが、リアリズムであるが故に、それは同時に「奇想」なのだ。実際に存在する光景や事実を切り取る、その行為は「奇想」以外のなにものでもない。リアルを奇想で描くと、奇想にもなるし、リアルにもなる。
「絞首刑」という絵。絵の中心には木がある。その木の両側に伸びる枝にはたくさんの人々が吊る下がっている。その木には梯子がかけられ、おそら司祭者だろう、十字架をかかげている。これもリアルでありまた奇想だ。