最近、日本という国を誇りたいという気持を持つ人が増えてきているようだ。その背景には、経済大国であることを誇った日本が、すでにピークを過ぎて「落ち目」になりつつあるという事実があるのだろう。これからの日本人は人口減などにみられるように、下り坂を生きることになる。
さてそういう人のなかに、日本の神道に誇りを持とうという者がいるそうだ。神道の起源をさかのぼると、それはアニミズムに行き着くようだ。現在でも、自然崇拝的な要素が、神道にはある。そしてその自然崇拝的な信仰をまとめあげたのが、8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』(『記紀』)となる。
といっても、この『記紀』はきわめて政治的な意図のもとに編纂されたている。言うまでもなく、「当時の天皇家の日本統治の正当性を神代ににまでさかのぼって筋立てしようとした」(大野晋『日本人の神』、河出文庫)ものである。その意味で、『記紀』は政治的文書ともいえるのである。
したがって、神野志隆光が指摘するように、「人間一般に対する関心をもたず、というより、人間一般を意識することなく、いわばノーカウントにして成りたつ神話化である。それが『記』『紀』の全体性の質であり、そこで民族文化や民衆社会につながる質―人間の出現―を見ようとすることは不可能である」。
さて、天皇家が日本を統治することを正当化するために編纂された『記紀』には、天孫降臨の話がある。『古事記』『日本書紀』とはその話に大きな違いがあるが、基本は、地上の葦原中国(あしはらなかつくに)を支配するためにアマテラスの孫であるニニギが天下るということなのだが、ボクは以前からなぜ「孫」なのかが不思議であった。
この天皇の神話化が図られたのが、持統天皇の頃。なお「日本」という国号も、「天皇」という尊称も、この天武・持統の頃からつかわれ始めたことがわかっている。
この頃の天皇には、たくさんの妻がいた。天智天皇の娘でのちに天皇となる持統は、天智の弟と婚姻関係になり、草壁皇子を生む。持統の姉も、天武の妻となって大津皇子を生む。また他の妻と、市皇子も生まれる。有能な持統は、自らの子である草壁を皇位につけようとするが早世してしまう。草壁皇子には天智の娘・後に元明天皇となる女性との間に軽皇子(のちの文武天皇)がいた。持統はみずからの孫である軽皇子を皇位に就けようとするのだ。ところが草壁皇子がなくなったとき、軽皇子は7歳。持統はみずから天皇となって、孫の成長を待ったのだ。
持統は、「天照らす 日女の命」(アマテラス)となって、孫である軽皇子を皇位につけるべく、軽皇子をニニギとして、神話をつくりだしたのである。
697年持統は文武に譲位する。そして、文武の妻は、藤原不比等の娘・宮子、宮子がのちの聖武天皇を生む。ちなみに聖武天皇の妻は、有名な光明子、この女性も不比等の娘であった。
これが「天孫降臨」の背景なのである。
日本神話は、天皇制神話であること、この本質はしっかりとおさえておかなければならないだろう。
大山誠一のこの本は、持統天皇の企ての背後に、藤原不比等がいること、日本の天皇制(基本的に、天皇が国政審議の場にいない)をつくりだしたのは、不比等であると断じていく。それは、天皇を神格化して、天皇を利用して、藤原氏が政治の実質的な担い手になるための制度であるとする。
藤原不比等の企てはさておいて、「天孫降臨」の歴史的背景については、なるほどと思った。
さてそういう人のなかに、日本の神道に誇りを持とうという者がいるそうだ。神道の起源をさかのぼると、それはアニミズムに行き着くようだ。現在でも、自然崇拝的な要素が、神道にはある。そしてその自然崇拝的な信仰をまとめあげたのが、8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』(『記紀』)となる。
といっても、この『記紀』はきわめて政治的な意図のもとに編纂されたている。言うまでもなく、「当時の天皇家の日本統治の正当性を神代ににまでさかのぼって筋立てしようとした」(大野晋『日本人の神』、河出文庫)ものである。その意味で、『記紀』は政治的文書ともいえるのである。
したがって、神野志隆光が指摘するように、「人間一般に対する関心をもたず、というより、人間一般を意識することなく、いわばノーカウントにして成りたつ神話化である。それが『記』『紀』の全体性の質であり、そこで民族文化や民衆社会につながる質―人間の出現―を見ようとすることは不可能である」。
さて、天皇家が日本を統治することを正当化するために編纂された『記紀』には、天孫降臨の話がある。『古事記』『日本書紀』とはその話に大きな違いがあるが、基本は、地上の葦原中国(あしはらなかつくに)を支配するためにアマテラスの孫であるニニギが天下るということなのだが、ボクは以前からなぜ「孫」なのかが不思議であった。
この天皇の神話化が図られたのが、持統天皇の頃。なお「日本」という国号も、「天皇」という尊称も、この天武・持統の頃からつかわれ始めたことがわかっている。
この頃の天皇には、たくさんの妻がいた。天智天皇の娘でのちに天皇となる持統は、天智の弟と婚姻関係になり、草壁皇子を生む。持統の姉も、天武の妻となって大津皇子を生む。また他の妻と、市皇子も生まれる。有能な持統は、自らの子である草壁を皇位につけようとするが早世してしまう。草壁皇子には天智の娘・後に元明天皇となる女性との間に軽皇子(のちの文武天皇)がいた。持統はみずからの孫である軽皇子を皇位に就けようとするのだ。ところが草壁皇子がなくなったとき、軽皇子は7歳。持統はみずから天皇となって、孫の成長を待ったのだ。
持統は、「天照らす 日女の命」(アマテラス)となって、孫である軽皇子を皇位につけるべく、軽皇子をニニギとして、神話をつくりだしたのである。
697年持統は文武に譲位する。そして、文武の妻は、藤原不比等の娘・宮子、宮子がのちの聖武天皇を生む。ちなみに聖武天皇の妻は、有名な光明子、この女性も不比等の娘であった。
これが「天孫降臨」の背景なのである。
日本神話は、天皇制神話であること、この本質はしっかりとおさえておかなければならないだろう。
大山誠一のこの本は、持統天皇の企ての背後に、藤原不比等がいること、日本の天皇制(基本的に、天皇が国政審議の場にいない)をつくりだしたのは、不比等であると断じていく。それは、天皇を神格化して、天皇を利用して、藤原氏が政治の実質的な担い手になるための制度であるとする。
藤原不比等の企てはさておいて、「天孫降臨」の歴史的背景については、なるほどと思った。