浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

憎悪の量産

2014-06-27 07:18:00 | 政治
 今日の『中日新聞』第一面に、「平和」を主張していた公明党が、「集団的自衛権」行使を認めた、という記事があった。

 創価学会=公明党の宗教的教義には、「王仏冥合」がある。国家権力と宗教が一体となるという考え方だ。だから創価学会=公明党は、国政でも、地方自治体でも、政権政党や地方自治体首長を支持し「与党」となってきた。

 今回は、「王仏冥合」をとるか「平和」をとるか、という岐路に立たされたわけだが、創価学会=公明党は前者を選択したようだ。権力の内部にいることのほうが、「平和」より大切であると判断したわけで、しかしこの選択は予想されていたことだ。なぜなら、今までも、守るべき社会的価値と「王仏冥合」とが天秤にかけられたとき、創価学会=公明党は、いつも「王仏冥合」を選択してきたからだ。

 それほど権力につながっていること、「与党」であることは、「おいしい」ことなのだ。

 さて、今後、自衛隊を先頭として、海外での戦争に参加していくことになりそうだが、この選択に関して、現在の戦闘がどういうものであるのかをきちんと認識しておくことが肝要であると思う。

 戦争とは、破壊と殺戮である。殺し殺され、破壊することなのだ。おそらく戦場は日本国内ではなく、海外であろう。そして、アメリカやヨーロッパでテロ事件が起きているが、今後日本国内でもそうした政治的テロが起きるだろうし、あるいは海外にいる日本人が襲撃されることも出てくるだろう。そうしたことから日本(人)を守ってきたのは、日本が海外での武力衝突とは常に一線を画してきたからである。それをやめるというわけだから、日本(人)も、他者(他国)から怨まれることになる。

 戦争は、その戦闘が終わっても、必ず憎悪が残される。その憎悪は、消えない。人々の心の奥底に、世代がかわろうとも、残され、きっかけがあれば再び燃え上がる。

 日本(人)は、「大日本帝国」の時代、アジア太平洋地域で、殺し、破壊し、憎悪を残してきた。その憎悪が、時に噴出することがあることを体験しているはずだ。

 戦後、日本(人)はそうした憎悪を生み出してこなかった。これからは、再び憎悪の「量産体制」に入るのだろう。

 平和ぼけの政治家たちが、自分以外の若者を戦場に送ろうとしている。日本のすがたかたちが、まったく変質しようとしている。

 これを、日本の人々は、認めるのだろうか。
コメント
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