浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

秋葉信仰

2014-06-10 08:18:17 | その他
 東京の「秋葉原」、今では世界的に有名になっているようだが、その「秋葉」という地名は、静岡県浜松市天竜区(悪名高き「平成の大合併」の前は周智郡春野町)にある、「秋葉山」からきたものである。

 近世江戸では、秋葉山山頂に祀られている「秋葉三尺坊」(三尺坊という僧が神として祀られていた。まさに「神仏習合」)への信仰がひろまっていたからだ。秋葉信仰は、火伏せ、つまり防火の神様である。火事が多い江戸町民には大事な神であった。

 今、秋葉山頂には「秋葉神社」というものがある。明治初期の神仏分離政策で強引に「秋葉三尺坊」が追放され、そのあとに秋葉神社が建立された。今では秋葉神社が秋葉信仰の正統であるという誤った認識がひろまっている。
 しかしそれは、秋葉信仰が権力的に断絶させられた後にできたものだ。これ以前には、秋葉神社はなかった。近世の絵を見れば明らかで、秋葉三尺坊を神として祀る社、そして秋葉寺が山頂にあった(民俗学関係の本には、明治以前から秋葉神社があったかのような記述を平気でしている。ボクが民俗学に対する不信感を持つ最大の理由だ。彼らは歴史的な考証をしない)。

 国家権力は、このように庶民の信仰を権力的に破壊・ねつ造する。

 さてこのほど、精緻な研究書が岩田書院から発売された。田村貞雄『秋葉信仰の新研究』である。田村氏の秋葉信仰についての研究は、30年以上前に始まる。そのはじめの頃、ボクも田村氏と同道して各所に行ったことがある。「毎日」のS氏もいた。それ以降も、研究の進捗状況を頻繁に聞いていた。従ってボクは、田村氏の研究をいつもそばで見つめていたことになる。

 この秋葉信仰、全国にひろがっている。だから、この研究は全国にまたがらざるを得ない。いきおい、田村氏の研究は全国にひろがっていく。

 通常歴史研究というのは、史料や文献をもとに積み上げていくものだ。しかしこの種の研究は、さらに交通費がかかる。田村氏は、全国の県立図書館に足を運び、秋葉信仰に関する史料を渉猟していった。その成果が、この『秋葉信仰の新研究』である。とてもカネがかかった研究であるというわけだ。そのつらさが「あとがき」にも記されている。

 その本が、9900円。高額の本だ。送られてきたばかりで、今は「あとがき」しか読んでいない。ボクがすすめている「近代日本における国学」という研究にも資する内容だ。

 今日から読みはじめようと思う。
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「テレビ・ジャーナリズムが危ない」

2014-06-10 00:05:41 | 社会
 「テレビ・ジャーナリズムが危ない」は、今月号『Journalism』の特集名である。だが、ボクは、ずっと前から「テレビ・ジャーナリズムは危険」状態であると認識している。

 たとえばNHK、すでに湾岸戦争の時のニュース番組は、戦況報道を、解説付きで行っていた。その視点は、常にアメリカ軍のものであった。「中立」なんてことばは、完全に死んでいた。あるいは、現在ではきわめて評判の悪い小選挙区制、導入されたときには「政治改革」という名であった。小選挙区制を導入することに反対する者たちは、「守旧派」であり、「悪者」であるかのような報道がなされていた。

 まさにテレビ・ジャーナリズムは、国家権力の意思を国民に伝えるだけではなく、まさに煽っていた。そういう過去を持つテレビ・ジャーナリズムが、今さら「危ない」もないものだ。

 しかしそうはいっても、日本国民の多くが、国営放送的なNHKのニュース番組をみて、政治意識をつくっている。批判を強めなければ、政治はもっともっと悪くなる。

 さて巻頭の「権力監視が抜け落ちたNHK 「美談」や「感動」に飛びつく視聴者はもっと声を上げよう」という対談は、よい内容だ。メディア関係者は読むべきだ。

 ついでに記しておけば、ボクは若い頃メディアの変化、もちろん悪い方への変化を感じて、ジャーナリズムに関する文章を一般雑誌にペンネームで書いていた。その時には、『マスコミ市民』、『新聞研究』、『総合ジャーナリズム研究』などの雑誌を購読し、そういう本からの「学び」をもとに批判的な文を書いていた。ジャーナリズムは、国民の知的レベルに対して決定的な規定性を持つ、という認識をもっていたからだ。

 この対談でも、「メディアの批判性や現実監視機能が低下し、メディアが劣化すれば、民衆も劣化する」という発言があるが、まさにその通り、記者の知的レベルが低いと、民衆が劣化する。相乗作用が高じて今ではひどい状況になってしまっている。

 メディア関係者は、「批判性や現実監視機能」とはいかなることなのかを熟考せねばならない。軽いのりでメディア世界に生きている者が多すぎる。

 また、記事を書く時に、基礎的な知識がないために、取材対象・取材内容を理解できないというメディア関係者もいる。

 ボクはそういう世界に生きてはいないけれども、何らかのことを研究対象に設定した後は、カネと時間に関して最大限を投下する。より多くのカネと時間を投入すればするほど、結果はよいものができる。それは今までの経験から導き出したものだ。

 真摯に取材対象に向き合うためには、あくなき探究心と実際の行動としての探求(学び)が必要だ。しかしその探究心も、学びも、その前提としての批判性がないとどうにもならない。

 随分脱線してしまった。この『Journalism』の内容については稿を改めて書き続けよう。


 
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