浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

いろいろな力をつかって

2014-06-14 21:48:21 | 政治
 時事通信の配信記事。ボクも署名した。憲法9条が、安倍政権の強権によって有名無実化されようとしている。こういうことでも、力になるだろう。この運動が、成功することを期待している。

憲法9条にノーベル平和賞を=署名8万超-ノルウェー委員会が推薦受理

 集団的自衛権の行使容認をめぐり憲法解釈を変更する議論が進む中、戦争の放棄を定めた憲法9条にノーベル平和賞を受賞させようという動きが広がっている。神奈川県座間市に住む主婦らが中心となってノルウェーのノーベル賞委員会に提出した推薦状が今年4月、正式に受理された。集まった署名は6月8日時点で8万人分を超えた。

 活動の始まりは、主婦の鷹巣直美さん(37)の「9条の素晴らしさに光を当てることはできないか」との思いからだった。鷹巣さんは高校卒業後にオーストラリアに留学。アフガニスタンなどの難民と知り合う機会を持ち、戦争の悲惨さを実感したという。

 その後、米軍基地のある座間市や相模原市の主婦、幼稚園教諭らが集まり
、昨年8月、「『憲法9条にノーベル平和賞を』実行委員会」を設立。インターネットや街頭で署名を募り、大学教授らの推薦文と2万4887人分の署名をノーベル賞委員会に送付した。受賞対象は個人と団体に限られるため、「9条を長年にわたり保持し続けた日本国民」が受賞候補となっている。

 実行委員会の共同代表の一人、保育園理事長の星野恒雄さん(80)は小学6年生のときに終戦を迎えた。「国のために死ぬのが生きがい」の軍国少年だったが、疎開先から戻ったときに見た東京の焼け野原の衝撃は大きく、親戚も兵隊として出征したまま戻ってこなかった。「命をつぶされることがどれほど残酷なことか。戦争は嫌だというのが骨身に染みた」

 ノーベル平和賞の発表は10月。星野さんは「受理は第一歩。これからが本番だ」と候補になった後も署名を集め続けている。「今年が無理でも、受賞するまで何度でも推薦する。続ければ、9条改憲を進める人たちに対する圧力になる。署名の集まりは国民の平和への期待の表れだから」と力を込める。(2014/06/14-14:32)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】『無垢の心をこがれ求める』(私家版)

2014-06-14 10:23:37 | 
 昨日『無垢の心をこがれ求める』という本が、昨日届いた。医師のTさんから送られたものだ。副題に、「伊藤邦幸・聡美記念文集」とある。

 伊藤邦幸、1993年62歳で昇天された。医師であり、哲学者であり、またキリスト者(無教会派)であった。

 この世界にいろいろな人が生きている。その中に、時に真珠のような輝きを持った人物に出会うことがある。生き方、言動など、どうしてこう純粋に考え行動できるのかと、うらやましく思えるような人。ボクは何人かそういう人に会ったことがある。その数少ない人は、無教会派のクリスチャンである。

 ボクはこの伊藤さんに、直接お会いしたことはなく、いろいろな人から話を聞き、また伊藤さんの『同行二人』という本をいただいたりして、伊藤さんを真珠のような輝きを持った一人にかぞえている。

 伊藤邦幸、「高校」(当時は中学校)時代、彼はシュバイツァーになろうと決心する。伊藤さんは東京大学文学部に入学、その後京都大学大学院でアウグスティヌスの神学を学び、32歳で京都大学医学部に進学する。1968年に医師免許を取得し、日本キリスト教海外医療協力会の一員としてインド、ネパールで医療活動に従事する。一旦帰国し、日本赤十字長浜病院、その後ネパール・オカルドゥンガへ。帰国して聖隷三方原病院。
 1986年、苦楽をともにした奥様の医師・聡美さんが富士山頂付近で遭難、昇天。その後ネパールへ。1992年アメリカ滞在中に脳梗塞を発症、聖隷三方原病院に転院するも、翌年昇天された。

 伊藤さんは、貧困なネパールで医療活動を行ったり、それぞれの地域で勉強会をしたり、キリスト教精神を基調にして様々な活動をされた。そのなかで、重要な「思想」を残されている。

 伊藤さんはエベレストの麓にあるチベット難民の集落を訪問して、「文明を計る尺度」についてこう記す。

 1 社会の底辺に沈んでいる人々に対して、社会全体が連帯意識と愛を絶やさないこと
 2 識字率が高いこと
 3 社会における独身女性の地位が低くないこと
 4 社会の構成員全員の活動が勤勉であると同時に芸術的であること
 5 著しい貧富の差がないこと
 6 他部族に対して心理的に閉鎖的でないこと


 果たして、日本は「文明人が住んでいる国なのか」?

 そして珠玉のことば。

 私がネパールの山奥におります間に、シュバイツァーをおもうたびに、思い返されることがひとつありました。それは、人間は他人の評価に生きてはならない、また他人の思想を批判することよりも、むしろ批判に耐えうる行為の人として存在すること。そして遂には行為において、思想をも審く者たるべきこと、これすべての実践家に負わされたるの義務である、という思いであります。今、山を降りまして、日本に帰り来たって、別の感懐がございます。それは、いかなる条件の下においても、人間が、真の人間性を以て、人間に働きかけることは可能である、このことのいかんに人類の将来は繋がっている、という思いであります。
 
 ボクが会った人間の中で、まさに純粋無垢の心をもって生きていると、心の底から敬意を以て接した人は、すべてキリスト者である。キリスト者でも、出世欲などをもって凡俗に生きている人もいるが、100%立派な生き方をしている人と思える人は、すべてキリスト者であった。

 この伊藤さんの生き方は、何度も何度も振り返られ、学ばれる。この本、まだ少し読んだだけだ。伊藤さんの生き方を学び、そのほんの一部でも自らの人生に生かしていきたいと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする