以下は、『東京新聞』のコラム。良い文だけれども、近年教育の分野で「生きる力」ということばが多用されているが、ボクは、このことばが嫌いである。
最近は「生き抜く力」というようだが、「生きる力」から「生き抜く力」と変わってきているようだ。それだけたいへんな社会になっている、ということなのだろう。
コラム子がいうように、「生きることは「じつに単純なこと」」であるかもしれないが、「食べて着て稼ぐ」だけではなく、人間は“意味”を考える存在。これがある。
生きる“意味”が不要だとされる社会になっているのではないかと思う。
古本屋で買った本に書き込みや引いた線を発見することがある。それを見て考え込む。この持ち主はその時、何を考えていたのか。なぜこの箇所なのだろうか▼「わたしは、じつは青春ということばが嫌いで-」。富岡多恵子さんの『青春絶望音頭』。前の持ち主は青春期の苦しさをつづった文に共感したのか、ここに線を引いている▼「これから死ぬまで生きていかねばならぬその内容が、からめ手でくるのにこっちはその手をほどく術(すべ)も知らぬまま、無理矢理(むりやり)に乱暴されている気がした」。弱々しい鉛筆の線。若い女性か。線を引いた部分から生きることにひっかかっているのが分かる。一九七九年発行の定価百八十円の文庫を読んだ人は、今どうしているだろう▼政府の白書によると、若者の自殺があまり減っていない。二十代男性の死因の過半数が自殺。いつの時代も複雑な人生に対して「ほどく術」を知らぬ若者が生きることを悩む。若い時は大概、ぶざまで無残な毎日だが、そんな自分を許せぬ生真面目な若者が絶望する▼若者の自殺に官房長官は「生き抜く力を植え付ける」という。もっともだが「生き抜く力」に胸が苦しくなる。生き抜かねばならないのか。「適当でいいんだよ」「話を聞いてあげようか」の方がよほどいい▼生きることは「じつに単純なこと」。食べて着て稼ぐ。ここにも線が引いてあった。
最近は「生き抜く力」というようだが、「生きる力」から「生き抜く力」と変わってきているようだ。それだけたいへんな社会になっている、ということなのだろう。
コラム子がいうように、「生きることは「じつに単純なこと」」であるかもしれないが、「食べて着て稼ぐ」だけではなく、人間は“意味”を考える存在。これがある。
生きる“意味”が不要だとされる社会になっているのではないかと思う。
古本屋で買った本に書き込みや引いた線を発見することがある。それを見て考え込む。この持ち主はその時、何を考えていたのか。なぜこの箇所なのだろうか▼「わたしは、じつは青春ということばが嫌いで-」。富岡多恵子さんの『青春絶望音頭』。前の持ち主は青春期の苦しさをつづった文に共感したのか、ここに線を引いている▼「これから死ぬまで生きていかねばならぬその内容が、からめ手でくるのにこっちはその手をほどく術(すべ)も知らぬまま、無理矢理(むりやり)に乱暴されている気がした」。弱々しい鉛筆の線。若い女性か。線を引いた部分から生きることにひっかかっているのが分かる。一九七九年発行の定価百八十円の文庫を読んだ人は、今どうしているだろう▼政府の白書によると、若者の自殺があまり減っていない。二十代男性の死因の過半数が自殺。いつの時代も複雑な人生に対して「ほどく術」を知らぬ若者が生きることを悩む。若い時は大概、ぶざまで無残な毎日だが、そんな自分を許せぬ生真面目な若者が絶望する▼若者の自殺に官房長官は「生き抜く力を植え付ける」という。もっともだが「生き抜く力」に胸が苦しくなる。生き抜かねばならないのか。「適当でいいんだよ」「話を聞いてあげようか」の方がよほどいい▼生きることは「じつに単純なこと」。食べて着て稼ぐ。ここにも線が引いてあった。