浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

日本史に弱い浜松市長

2014-06-06 23:36:31 | 社会
 『広報はままつ』という月一回全戸配布される市の広報がある。ここに「市長コラム」というのがあって、スズキ市長が毎号書いている。

 しかしスズキ市長、日本史が弱いらしく、日本史のことを書くと間違いがいつもある。

 市長は、「・・家康ブームの火付け役となった山岡宗八氏の「徳川家康」を再度読み返す・・」(2014年6月号)と書いている。「宗八」ではなく、「山岡荘八」である。コンピュータで「やまおかそうはち」と打つと、「山岡荘八」としか変換されない。
 本当に読んだことがあるの?と尋ねたくなる。というのも、山岡荘八の「家康」は、とにかく長いからだ。

 以前にも、市長は「浜松をビジネスマンの聖地に」という文で、「・・江戸時代には、浜松城主を務めた人の多くが江戸へ戻り、老中などの需要ポストに就いた・・・」、「今でいえば、浜松支店の支店長を務めると、東京本社へ戻って取締役になるようなもの」と書いていた。

 日本史を学ばなかったのか、まったくの間違いである。

 たとえば天保の改革を行った水野忠邦は、浜松藩主であると同時に老中であったのだ。市長の言い方をまねると、「浜松支店の支店長が同時に取締役」なのである。

 浜松市の広報担当者は、市長の文をきちんと校閲すべきだと、以前にも書いたことがある。恥多き文は、市民にとっても恥である。
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竹中平蔵という人間について

2014-06-06 20:50:20 | 社会
 『日刊ゲンダイ』の記事。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150691


 それを教えてくれたブログ。


http://nabeteru.seesaa.net/article/398848508.html
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少数と多数

2014-06-06 13:11:01 | 社会
 テレビ局、あるいはコンサート業界。これらは華やかな世界だ。出演者はきらびやかに着飾り、にこやかに登場する。

 しかしその裏方には、多数の非正規労働者がいる。非正規労働者が、華やかな世界を支えている。

 M君からのメール。アルバイトで、ここ数年AKB48の裏方の仕事をしていたそうだ。どんなに働いても、安い時給、過酷な労働。

 しかし、こうした業界は、ずっと昔から、正社員ではなく、ほとんどが下働きとして非正規の人々が働いてきた。華やかさに誘惑されて、自らの意思でこうした業界に飛び込んでいく。

 若い時はまだよい、しかし確実に歳を重ねる。華やかな世界はそのまま存在しているが、いつのまにか自分自身がついていけなくなる。

 気がついた時も、時給は安いままだ。若かったから過酷な労働にも耐えられた。だが、それもできなくなる。

 華やかな世界には、莫大なカネが流れる。テレビの世界では、桁違いのカネが動く。機材だって、想像を超えるほどの価格だ。

 まわるまわるカネ、しかし、それは少数の者に集められ、多数の者にはまわってこない。

 使い捨てということばがある。働く人の多くは、使い捨てられるという厳しい現実がある。

 
 そうした現実を何とかしようと、ボクは学生時代労働法を中心に、法律を学んだ。その法律を生かそうとして生きてきた。だが、「規制緩和(撤廃)」というかけ声のなかで、そうした労働者の権利が捨てられようとしている。

 明日、学生時代のサークルの同窓会がある。少なくとも、社会のあり方に問題意識をもっていたもと学生たち。

 明日は、東京。
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真夜中の音楽

2014-06-06 01:00:09 | 日記
 講座の準備。何をどう話すか、原稿を書いている。初めて話すことだから、書いてみないといけない。書いていくと、どこを理解していないか、どこが不十分であるかなどがわかってくる。だからコンピュータにむかって書く。

 バックには、ピアノ曲。しかし真夜中になると、文を書くのをやめて、聴いてしまう。なぜか夜のほうが音が響く。昼間はどこからか、何らかの音がはいってくる。しかし、深夜になると、ほとんど音はしない。ただキーボードを打つ音とピアノ。

 今は、フジ子ヘミングの演奏だ。綺麗な響きだ。フジ子ヘミングの音は、「空」(くう)だ。おそらく無心に弾いている。しかし無心であるが故に、フジ子ヘミングの生きてきた時間、当然それは彼女が生きてきた空間を伴っているのだが、それが「空」に漂う。

 何も考えないで、ただ無心でいることの快感を、ボクは農作業のなかで発見した。何も考えない、何も悩まない・・・・素晴らしいことだ。そういう時間こそが、ゆとりなのだろうと思う。

 フジ子ヘミングが無心に弾く音を、ボクも無心に聴く。ただ感じる。

 ボクの生きる時間が、こうして過ぎて行く。しかしその時間は、無心であるが故に、豊穣である。考える、悩むということは、ボクの思考をそれらで限定するということだ。無心であるということは、それは無限へと解放するということなのだ。ボクが今生きている、この一瞬一瞬過ぎていくと同時に蓄積されていく時空に、自らを投企するのである。

 音楽を聴くということは、無心の時空に漂うということ。ピアノの音が、ボクの時空を、刻んでいく。今は、ショパンの「革命」が時空を流れ落ちる。見果てぬ夢。

impossible dream! Can we make the impossible possible?
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