昨日静岡へいった。「戦争をさせない1000人委員会・静岡」という平和運動に関係しているからだ。
会議では、いろいろなことが話し合われる。若い人の参加が少ない、どうしたら参加してもらえるのだろうか、集団的自衛権は6月20日に閣議決定されるのではないか・・・・、様々な意見が出される。
しかし、解釈改憲で集団的自衛権を行使することを可能にすることは、自衛隊が米軍の傭兵となって海外で戦闘に参加する、戦傷死者がでる・・・・ということにつながっていく。
これはたいへんなことなのだ。ボクたちがイメージする「戦後日本」の姿が完全に過去となる、日本社会が根本的に変化する、日本国憲法がなくなる(自民党憲法草案が新憲法として登場する)・・・
ボクは『中日新聞』を購読しているが、この問題については解説記事、「特報」欄などできちんと報道している。頑張っているな、と思う。
しかし、日本社会は静かすぎる。
こういう根本的な変化を阻止するために、駅頭では毎日のようにビラまきが行われなければならない、宣伝カーが集団的自衛権の危険性を訴えていかなければならない、労働組合は学習をすすめ街頭に出てこなければならない。
だがしかし、そういう姿は見られない。
安倍政権は、従来の政府見解を無視し、日本国憲法による制約をも吹っ飛ばして、海外での戦争ができる国家にしようと自信を持って強行突破しようとしている。彼らは激しい反対運動は起きないだろうと踏んでいるはずだ。
運動する側が、「反対することが当たり前」であるという「時流」をつくりださなければならない。1960年、安保に反対するのは当たり前という「時流」、1970年代、ベトナム戦争に反対するのが当たり前という「時流」、そういう「時流」がかつてはあった。
だが今は、ほんとうに静かだ。
なぜそうした運動が起きないのだろうか。1980年代から、国家権力の側が労働組合の力を奪って総評をつぶし、さらに社会党を骨抜きにし、他方でメディアを掌中にいれ、学校教育を牛耳ることができたからか。
いや、それでも平和と民主主義を求めて生きてきた人はたくさんいるだろう。全人口からすれば少数ではあろうが、それでも集まればかなりの人数になるはずだ。
ボクは、運動の側が静かな理由は、人々が学ぶことをしなくなったことが大きいと思う。怒らなければならないことがあっても、それを知らなければ怒れない。同時に怒りを持った人が周辺にいないので、怒りを継続させることができない。
そして「戦後」の歴史のなかで、戦後民主主義を擁護し発展させようと考えてきた政治勢力が、些細な対立が積み重なって「統一戦線」をくめなくなっていること、これも大きい理由だ。1970年代まであった「革新統一戦線」が崩壊し、それに関係した団体や個人が再びそれを組むことはしないであろうという意思が、現在の危機的な状況を生み出しているとも思う。政治に直接関わっている人びとが、現在の歴史に責任を負おうとしないということでもある。
ボクらは、「戦後民主主義」の最大の危機に際会している。ボクらは後世の人々に批判されるのだろう。なぜあなたたちは、このような政治社会を許したのか、と。その時ボクらは、いや一生懸命闘ったのだ、というのだろうか。
ボクは、おそらく沈黙するしかないだろうと思う。ただうな垂れて、声を出さずに謝罪を繰り返すのだ。
会議では、いろいろなことが話し合われる。若い人の参加が少ない、どうしたら参加してもらえるのだろうか、集団的自衛権は6月20日に閣議決定されるのではないか・・・・、様々な意見が出される。
しかし、解釈改憲で集団的自衛権を行使することを可能にすることは、自衛隊が米軍の傭兵となって海外で戦闘に参加する、戦傷死者がでる・・・・ということにつながっていく。
これはたいへんなことなのだ。ボクたちがイメージする「戦後日本」の姿が完全に過去となる、日本社会が根本的に変化する、日本国憲法がなくなる(自民党憲法草案が新憲法として登場する)・・・
ボクは『中日新聞』を購読しているが、この問題については解説記事、「特報」欄などできちんと報道している。頑張っているな、と思う。
しかし、日本社会は静かすぎる。
こういう根本的な変化を阻止するために、駅頭では毎日のようにビラまきが行われなければならない、宣伝カーが集団的自衛権の危険性を訴えていかなければならない、労働組合は学習をすすめ街頭に出てこなければならない。
だがしかし、そういう姿は見られない。
安倍政権は、従来の政府見解を無視し、日本国憲法による制約をも吹っ飛ばして、海外での戦争ができる国家にしようと自信を持って強行突破しようとしている。彼らは激しい反対運動は起きないだろうと踏んでいるはずだ。
運動する側が、「反対することが当たり前」であるという「時流」をつくりださなければならない。1960年、安保に反対するのは当たり前という「時流」、1970年代、ベトナム戦争に反対するのが当たり前という「時流」、そういう「時流」がかつてはあった。
だが今は、ほんとうに静かだ。
なぜそうした運動が起きないのだろうか。1980年代から、国家権力の側が労働組合の力を奪って総評をつぶし、さらに社会党を骨抜きにし、他方でメディアを掌中にいれ、学校教育を牛耳ることができたからか。
いや、それでも平和と民主主義を求めて生きてきた人はたくさんいるだろう。全人口からすれば少数ではあろうが、それでも集まればかなりの人数になるはずだ。
ボクは、運動の側が静かな理由は、人々が学ぶことをしなくなったことが大きいと思う。怒らなければならないことがあっても、それを知らなければ怒れない。同時に怒りを持った人が周辺にいないので、怒りを継続させることができない。
そして「戦後」の歴史のなかで、戦後民主主義を擁護し発展させようと考えてきた政治勢力が、些細な対立が積み重なって「統一戦線」をくめなくなっていること、これも大きい理由だ。1970年代まであった「革新統一戦線」が崩壊し、それに関係した団体や個人が再びそれを組むことはしないであろうという意思が、現在の危機的な状況を生み出しているとも思う。政治に直接関わっている人びとが、現在の歴史に責任を負おうとしないということでもある。
ボクらは、「戦後民主主義」の最大の危機に際会している。ボクらは後世の人々に批判されるのだろう。なぜあなたたちは、このような政治社会を許したのか、と。その時ボクらは、いや一生懸命闘ったのだ、というのだろうか。
ボクは、おそらく沈黙するしかないだろうと思う。ただうな垂れて、声を出さずに謝罪を繰り返すのだ。