浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

静かであるが・・・

2014-06-11 20:02:23 | 政治
 昨日静岡へいった。「戦争をさせない1000人委員会・静岡」という平和運動に関係しているからだ。

 会議では、いろいろなことが話し合われる。若い人の参加が少ない、どうしたら参加してもらえるのだろうか、集団的自衛権は6月20日に閣議決定されるのではないか・・・・、様々な意見が出される。

 しかし、解釈改憲で集団的自衛権を行使することを可能にすることは、自衛隊が米軍の傭兵となって海外で戦闘に参加する、戦傷死者がでる・・・・ということにつながっていく。

 これはたいへんなことなのだ。ボクたちがイメージする「戦後日本」の姿が完全に過去となる、日本社会が根本的に変化する、日本国憲法がなくなる(自民党憲法草案が新憲法として登場する)・・・

 ボクは『中日新聞』を購読しているが、この問題については解説記事、「特報」欄などできちんと報道している。頑張っているな、と思う。

 しかし、日本社会は静かすぎる。

 こういう根本的な変化を阻止するために、駅頭では毎日のようにビラまきが行われなければならない、宣伝カーが集団的自衛権の危険性を訴えていかなければならない、労働組合は学習をすすめ街頭に出てこなければならない。

 だがしかし、そういう姿は見られない。

 安倍政権は、従来の政府見解を無視し、日本国憲法による制約をも吹っ飛ばして、海外での戦争ができる国家にしようと自信を持って強行突破しようとしている。彼らは激しい反対運動は起きないだろうと踏んでいるはずだ。

 運動する側が、「反対することが当たり前」であるという「時流」をつくりださなければならない。1960年、安保に反対するのは当たり前という「時流」、1970年代、ベトナム戦争に反対するのが当たり前という「時流」、そういう「時流」がかつてはあった。

 だが今は、ほんとうに静かだ。

 なぜそうした運動が起きないのだろうか。1980年代から、国家権力の側が労働組合の力を奪って総評をつぶし、さらに社会党を骨抜きにし、他方でメディアを掌中にいれ、学校教育を牛耳ることができたからか。

 いや、それでも平和と民主主義を求めて生きてきた人はたくさんいるだろう。全人口からすれば少数ではあろうが、それでも集まればかなりの人数になるはずだ。

 ボクは、運動の側が静かな理由は、人々が学ぶことをしなくなったことが大きいと思う。怒らなければならないことがあっても、それを知らなければ怒れない。同時に怒りを持った人が周辺にいないので、怒りを継続させることができない。

 そして「戦後」の歴史のなかで、戦後民主主義を擁護し発展させようと考えてきた政治勢力が、些細な対立が積み重なって「統一戦線」をくめなくなっていること、これも大きい理由だ。1970年代まであった「革新統一戦線」が崩壊し、それに関係した団体や個人が再びそれを組むことはしないであろうという意思が、現在の危機的な状況を生み出しているとも思う。政治に直接関わっている人びとが、現在の歴史に責任を負おうとしないということでもある。

 ボクらは、「戦後民主主義」の最大の危機に際会している。ボクらは後世の人々に批判されるのだろう。なぜあなたたちは、このような政治社会を許したのか、と。その時ボクらは、いや一生懸命闘ったのだ、というのだろうか。

 ボクは、おそらく沈黙するしかないだろうと思う。ただうな垂れて、声を出さずに謝罪を繰り返すのだ。

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とても大切なこと

2014-06-11 11:17:46 | 読書
 これは『毎日』の記事。ボクは週一回書店に行き、どういう本がでているかをチェックする。本のほとんどは通販(honto)で購入しているが、ネットだけだと、見逃してしまう本がでてくる。

 書店に行くと、嫌韓本、嫌中本が積まれているところがある。よくもまあこんなたくさんの種類が出版されているのかとあきれてしまう。すべて非学問的、知性のかけらもないものだ。こういう扇情的な本を出版する出版社の理性を疑ってしまうが、しかしこれだけたくさん並んでいると、買っていく人もいるのだろう。

 先日大学のサークルの同窓会があったが、その種の本を数冊持ってきて、ボクに意見を尋ねる者がいた。それらの本が低レベルであったことに驚き、そういう本を彼が真に受けて読んでいることがとても残念であった。

 この記事にあるような取り組みはもっともっと積極的にやってもらいたいと思う。出版人の良心である。


時流・底流:売れる「嫌韓嫌中」本 若手出版人が「この国考えて」
毎日新聞 2014年06月02日 東京朝刊


書店に並べられた河出書房新社の選書フェア「今、この国を考える」の対象書籍=東京都豊島区のリブロ池袋本店で2014年5月30日、西本勝撮影
拡大写真 韓国や中国を攻撃する出版物が売れている。書店の店頭には、両国の国名に「嫌」「呆」といった文字をかぶせた書籍や、刺激的な見出しの雑誌が並ぶ。こうした風潮に、河出書房新社(東京都渋谷区)の若手社員4人が問題提起を思い立った。「今、この国を考える−−『嫌』でもなく『呆』でもなく」と題した選書フェアを企画したところ、19人の作家や評論家らが協力し、全国100店以上の書店が本を置くことになった。

 尖閣諸島など領土をめぐる緊張が起きた2010年ごろから、両国を批判する出版物が目立ち始めた。昨年末からは、安倍晋三首相の靖国神社参拝をめぐる両国の対応を非難したり、韓国の客船沈没事故の対応を冷ややかに語る雑誌記事が相次いで出ている。

 こうした中、河出書房新社の編集者の一人が今春、都内の有名書店の壁面に、太平洋戦争での日本を賛美する内容の書籍広告が掲げられたのを見てショックを受けた。「書店を非難できない。送り手が何とかしなければ」と周囲に呼びかけた。文学全集担当、書籍編集、営業といった普段は一緒に仕事をしていない20〜30代の4人が集まった。アンチテーゼではなく「本の豊かさ、多様性、いろんな本の中から問題に気づいたり、考えたりするきっかけを届けよう」と話し合った。

 ◇18冊選びフェア
 担当する作家や評論家に協力を呼びかけた。同社が発行する書籍6冊と、作家・評論家らが推薦する他社発行の12冊の計18冊が決まった。中国や韓国を取り上げた本だけでなく、消費税、生活保護、近現代史、憲法、宗教といった多彩な本がそろった。

 作家の星野智幸さんは「企画に救われた思いがした。『嫌韓嫌中』は長い時間をかけて醸成されたものだから、変えるのも長い時間が必要だ。まず現場での現実を知るべきだ」と考えて、弁護士のななころびやおきさんが外国人労働者を描いた「ブエノス・ディアス、ニッポン」を推薦した。

 映画監督の想田(そうだ)和弘さんは「怒らないこと」(A・スマナサーラさん著)を推薦した。「出版業界も経済的に苦しいから、売れる『嫌韓嫌中』本に頼らざるを得ないのだろう。だとしたら良書が売れる努力をすることが一番だ。怒りをあおる本が売れ、右も左も人々が怒りに支配された状況への鎮静剤ないし解毒剤になる良書だ」。大貫妙子さんのエッセー集「私の暮らしかた」を推した作家の中島京子さんは「毎日の暮らしの中に『考える』という行為がある。一人一人がそういう『暮らしかた』をしていれば、世の中はそんなに間違った方向へ行かないのではないかと考えました」とコメントした。

 ◇100書店が参加
 5月中旬に全国の書店にファクスで案内状を送り、ツイッターで宣伝したところ、10日ほどで対象書籍を並べることを表明した書店が100店を突破した。ツイッターを見た人が書店に参加を促すこともあったという。担当者の一人は「ぜひ書店に足を運んで、ネットでは目に入らないような、いろんな本を見てほしい」と呼びかけている。【青島顕】

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 ◇協力した作家や評論家たち
小熊英二、野間易通、北原みのり、朴順梨、小林美希、斎藤貴男、雨宮処凛、いとうせいこう、内田樹、岡田利規、斎藤美奈子、白井聡、想田和弘、中島京子、平野啓一郎、星野智幸、宮沢章夫、森達也、安田浩一(順不同、敬称略)
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今月号の『Journalism』(3)

2014-06-11 06:49:26 | メディア
 味谷和哉氏の「ニューヨーク・フェスティバルで金賞を受賞、新聞とテレビ双方を経験して思うこと」も、深い内容で読ませる文であった。映像というものの可能性を指摘すると同時に、その映像のなかに「メメント・モリ」(死を思え)というメッセージをいれる、ということの重要性を感じた。味谷氏の制作したドキュメンタリーを見たいと思う。

 水島宏明氏の「地方局が健闘、民放のジャーナリズム 記者やディレクターの矜持に期待」もよい内容であった。地方局には、優秀な問題意識をもった記者・ディレクターが存在することは確かだ。ボクも、そういうディレクターとともに、南京事件や中国人強制連行事件を扱ったドキュメンタリーを制作したことがある。ただ、NHKと異なり、制作費が貧しいという欠陥はある。

 水島氏の「国の矛盾はまず地方で芽を出す」ということばは、全面的に正しい。地方には矛盾が転がっている。その矛盾も、それぞれ個別具体的な事象ではあるが、その事象は当該時代を映し出す普遍性をもっているのだ。個別具体的な事象をとりあげるなかから普遍性を導き出すことにより、個別具体的な事象は生きるのである。これは歴史研究と共通する。自治体史を書く場合、その地域に存在する無数の歴史的事象のなかから、普遍性をもつ事象を選び出していく。それを国全体、あるいは東アジア、世界の歴史のなかに位置づけることにより、地域の個別的な事象が同時に普遍性をもつ、普遍性は常に個別具体的な事象のなかにある、それを見つけ出すことが自治体史の醍醐味である。とはいえ、残念ながらその自治体のなかで発見された史資料のみに依存し、全国や世界との関連性を問わない自治体史も存在する。つまり個別具体的な事象の記述のみで自己満足する自治体史も多い。もったいないことだ。それぞれの地域、そしてそこに住む人々は、県、国、東アジア、世界へとつながっているのであって、その地域だけで完結しているわけではない。みずからの視野の狭さにもとづいて歴史を叙述するべきではないのである。

 さて水島氏は「全国ニュースを送り出すキー局の制作者が主に意識するのは首都圏の視聴者であり、地方がどう受け止めるかはほとんど二の次だ」という。この指摘については、首都圏ー地方という関係だけではなく、地方局も同様に、県庁所在地中心の番組作りをしていて、県庁所在地―地域という関係としても把握されなければならない。地方局の制作者も、自らの目線を常に意識して、これでよいのかどうかを振り返るべきである。

 ついでに指摘しておけば、これは市民運動でもいえることであって、首都圏の運動は地方の人たちにも支えてもらえる、県庁所在地の運動は県内各地の人々に支えられる、しかし地方の運動は地方の人々のみが支える。よほど重要な運動ことでないかぎり、「中心」が地方を支えることはない。これはボク自身がいつも思うことだ。

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今月号の『Journalism』(2)

2014-06-11 06:49:18 | メディア
 今日は静岡へ行った。その往復、今月号の『Journalism』を読んだ。今月号は読ませる。

 まず最初の対談がよい。TBSの金平氏の「報道特集」はできるだけ見るようにしているが、金平氏の報道への関わりはまさにジャーナリズムの王道であるといってよいだろう。

 座談会のなかで記者会見が議論されているが、記者会見における記者の質問がほんとうに低劣化していて、権力者の「お言葉をお伺いする」という姿勢のもと、ある意味でどうでもいいような質問、権力者にとってありがたい質問、そういうものが多すぎる。権力者を怒らせるような、動揺させるような質問はほとんどない。
 記者会見は記者と権力者が仲良く話し合う場ではなく、国民の知る権利を背景に、国民のかわりに権力者の意図を露出させるというものでなければならないはずだ。

 柏原氏は、「権力側にとってみれば、メディアというのは利用するものなのです。そういう状況の中で、取材能力だとか、取材する姿勢が劣化してくるとなると、極めて絶望的な状況なのではないか」と語るが、同感である。批判精神の欠如はメディアの死を意味する。

 松田氏は、「総体として新聞は、現在、ジャーナリズムとしての権力監視の役割を十分に果たしているとはいえない」「もしはたしていれば、日本の政治や社会、教育、そして民主主義が、今のような悲惨な状態になっているはずがない」というが、しかしメディアは1990年代から、「権力監視の役割を」果たしてこなかったから、「悲惨な」「現在」があるのだ。
 
 メディア関係者は、自らが「歴史の記録者として」(これについては以前『マスコミ市民』に「地方記者へ」として書いたことがある)、さらに同時に重要な民主主義の担い手としての自覚を持つべきなのである。

 つぎに、座談会のあとに掲載された「「放送を語る会」テレビ秘密保護法報道を検証する」は有益であった。その項目だけでも、内容が判明する。「反対運動の軽視」、「「危険な法案」への言及の少なさ」、「伝えられなかった法案の内容」、「一部民放に見られた批判精神」、「“政府広報化”際立ったNHKニュース」、「「客観報道主義に隠された「政権を批判しない」という編集スタンス」。とくにNHKのニュースは、ニュースではなく、政府広報であり、政府のプロパガンダとしか言いようがないものであった。残念ながら、NHKの報道は瀕死の状態にある。
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