浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

テッサ・モリス=スズキ教授の「慰安婦」問題と安倍政権について書いていること

2014-10-19 14:19:27 | 政治
 いつも鋭い問題意識で、現実を鮮明にさせてくれるテッサ・モリス=スズキ教授が、安倍政権がおこなっている「慰安婦」攻撃について、鋭い発言をしている。

 下記のサイト参照。

http://blog.tatsuru.com/2014/10/19_0924.php
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矢内原忠雄

2014-10-19 12:22:55 | 政治
 今日、『言論抑圧 矢内原事件の構図』(中公新書)を注文した。1930年代、自由、平和が危機を迎えた時に「時流」に抵抗した人物、それを知るためである。

 抵抗者としての矢内原忠雄。

 ボクが尊敬する無教会派のクリスチャン、故溝口正先生は、文あるいは話の中でしばしば矢内原忠雄に言及されていた。無宗教のボクは、クリスチャンとしての矢内原ではなく、学者としての矢内原からはいろいろ学んでいた。しかし、学者として、人間として、クリスチャンとしての面は、矢内原の人格のなかで、いうまでもなく統一されている。その統一された人格により、矢内原は時流に抗していたのである。

 『天皇と東大』第三巻(文春文庫)の最後のあたりで、立花隆は、時流に堂々と抗する言論を行った河合栄治郎、矢内原忠雄について述べている。

 矢内原は、2・26事件について、こう記している。「血気の勇ありて正義なく、信念ありて知識なく、暴力に恃んで国事を左右せんとす」。見事な批判である。

 「私は真理のために自分の公に言うべきことは言う。しかしそのため私自身に批評とか弾圧とかが加わっても、一切弁明もせず抵抗もしない。そう態度を決めていたのである。その後の戦においても、私は大体この態度をもち続けたが、その結果は、公のためにも、また私一己のためにも、損失となったよりもむしろ利益となったことが多い。これは言うまでもなくイエスより学んだ戦闘の原則であった」

 なるほど、故溝口先生も、「公に言うべきことを言う」姿勢を、ずっと貫いておられた。矢内原に言及するということは、こういう生き方に共通点を持っていたのかと、今更ながら合点がいった。

 「真の愛国心は国家以上に宇宙の公理としての道義を認め、その道義によって自己の現実国家を批判し、道義に反したる点は之を指摘匡正して以て道義国家の理想に近づけ、道義の光をその中より放たしめんとするものでなければならない。故に真の愛国心は国家の利益を考えずして、国家の道義を考える」

 格調高い文である。まさに1930年代から40年代前半にかけての、道義が廃れた、あるいは道義が無残に踏みにじられた時代とよく似た現在の日本に、鋭く突き刺さる文である。

 故溝口先生が矢内原に言及されていたのは、ボクに矢内原をもっと学びなさいと示唆していたのかもしれない。

 我が日本を、「道義国家の理想に近づけ」る努力が、本当に求められている。
コメント (1)
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「新聞の信頼感低下」

2014-10-19 07:48:49 | メディア
 今朝の『中日新聞』を読んでいたら、「新聞通信調査会」が行ったメディア世論調査の結果が、小さな記事で載っていた。

 「新聞通信調査会」については下記へ。

http://www.chosakai.gr.jp/index2.html

 それによると、新聞の信頼感が「低くなった」と答えた人が、昨年の5・6%から10・2%に増えた、とある。

 その理由として、「誤報があったから」とした人が最多で28・7%、「朝日新聞の誤報問題が影響した」と同会の編集長・保田氏は説明した、という。

 しかし「誤報」なんて、山のようにある。冤罪が証明された刑事事件なんかをみると、新聞・テレビなどには「誤報」の山が築かれている。「犯人」とされた方に対する、いわれなき誹謗中傷が堂々と記事としてまかり通る。

 また『朝日』だけではなく、他紙も大きな「誤報」をしている。「慰安婦」問題に関してだって『読売』は、1985年9月27日に吉田清治を「人」欄で写真入りで紹介し、1992年8月15日にも吉田清治の証言講演の記事を掲載している。この「誤報」は訂正されたのか。

 あるいは、『読売』の「ips細胞を使った世界初の心筋移植手術」(2012年12月)、『産経』の「中国の江沢民主席が死去」(2011年7月)などなど。
 
 『朝日』は、「誤報」を「誤報」として訂正した。よいことではないか。これこそ「信頼感」を高くすることである。

 信頼感を低下させたのは、自らの「誤報」を訂正しないでおいて、他紙の「誤報」をここぞとばかりにとりあげ、大キャンペーンを、極右の安倍政権ととともに繰り広げた『読売』『産経』、そして週刊誌なのではないか。

 『朝日』が「慰安婦」問題のうち、吉田清治証言を信頼できないことだとみずからの報道を検証し、あるいは東電の吉田証言の解釈が間違っていた(ボクはこれは「誤報」ではないと思っている)としたこと、それは新聞社の自浄作用であるとして、読者は「そうだったのか」とさっと済ましていくものだったのだ。

 それを、みずからの報道を検証もしないで、鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て、下品な攻撃を繰り広げた『読売』『産経』、週刊誌、かれらがつくりだしたのが「信頼感」の低下なのだ。

 保田氏の解釈は、間違っている。
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