足尾鉱毒事件で有名な田中正造。正造にとって静岡は、河井重蔵、大村和吉郎など同志が住むところであった。
今日、旧知の正造研究者が、新しく発見された正造の書簡を見たいというので案内した。『下野新聞』の記者も同行してきた。正造は、栃木の人。昨年は正造没後100年ということで、同紙はそれにかなり紙面を割いたという。今日の訪問も、いずれ同紙に掲載されるだろう。
正造については様々な研究があり、全集も刊行されているが、河井や大村については、どういう人生を送ったのかがわかっていない。
正造と大村、河井との共通点は、立憲改進党系の議員であること、また河井とは同じような鉱毒事件(久根鉱山)に関わったこと、であるが、それ以上のことはわかっていない。
今日、いろいろ話をしていて、わからないことが多いことがよくわかった。
しかし、掛川で発見された正造の新史料、史料を所蔵している地元の教育委員会、そしてメディアも、その重要性に気づいていないようだ。『中日新聞』は、掛川地域の版では写真入りで報じているが、浜松版では小さな見逃してしまうような記事だった。鉱毒事件があった久根鉱山(これも古河鉱業が所有していた)は浜松市(旧佐久間町)にあるのだから、浜松も正造と無関係ではないのである。
さて今日いただいた資料(石井鶴吉編「義人田中正造翁逝いて38年」)には、正造の病床見舞いに、「静岡県田方郡選出の衆議院議員大村和吉郎氏は田中翁の急を聞き、帝大在学子息を伴ひ病所を訪いて面会を乞いしに、・・・」(A)とある。1913年8月のことであった。
だが、「静岡県田方郡選出の衆議院議員大村和吉郎氏」とあるが、この時点で大村は衆議院議員ではなく、また子息が「帝大在学」はしていない。大村の子息は、早稲田卒業である。
別の資料には、1913年8月24日「静岡県の河井重蔵代議士が見舞われた」(B)(島田宗三『田中正造翁余録』下巻)とある。
子息である河井弥八は帝大卒であることは確かであるが、「在学」はおかしい。というのも、弥八は1877年生まれ、1913年では36歳となっている。弥八が帝大を卒業したのは、1904年である。
この二つの資料だけでは何とも言えないが、河井も大村も正造の見舞いに来る必然性はある。(A)(B)の二つの資料によって、1913年8月、重蔵の子息・弥八が重蔵と共に見舞いに来たといえるのかどうか。
つまり、他の資料が出てこないと、何とも言えない、ということである。
今日、旧知の正造研究者が、新しく発見された正造の書簡を見たいというので案内した。『下野新聞』の記者も同行してきた。正造は、栃木の人。昨年は正造没後100年ということで、同紙はそれにかなり紙面を割いたという。今日の訪問も、いずれ同紙に掲載されるだろう。
正造については様々な研究があり、全集も刊行されているが、河井や大村については、どういう人生を送ったのかがわかっていない。
正造と大村、河井との共通点は、立憲改進党系の議員であること、また河井とは同じような鉱毒事件(久根鉱山)に関わったこと、であるが、それ以上のことはわかっていない。
今日、いろいろ話をしていて、わからないことが多いことがよくわかった。
しかし、掛川で発見された正造の新史料、史料を所蔵している地元の教育委員会、そしてメディアも、その重要性に気づいていないようだ。『中日新聞』は、掛川地域の版では写真入りで報じているが、浜松版では小さな見逃してしまうような記事だった。鉱毒事件があった久根鉱山(これも古河鉱業が所有していた)は浜松市(旧佐久間町)にあるのだから、浜松も正造と無関係ではないのである。
さて今日いただいた資料(石井鶴吉編「義人田中正造翁逝いて38年」)には、正造の病床見舞いに、「静岡県田方郡選出の衆議院議員大村和吉郎氏は田中翁の急を聞き、帝大在学子息を伴ひ病所を訪いて面会を乞いしに、・・・」(A)とある。1913年8月のことであった。
だが、「静岡県田方郡選出の衆議院議員大村和吉郎氏」とあるが、この時点で大村は衆議院議員ではなく、また子息が「帝大在学」はしていない。大村の子息は、早稲田卒業である。
別の資料には、1913年8月24日「静岡県の河井重蔵代議士が見舞われた」(B)(島田宗三『田中正造翁余録』下巻)とある。
子息である河井弥八は帝大卒であることは確かであるが、「在学」はおかしい。というのも、弥八は1877年生まれ、1913年では36歳となっている。弥八が帝大を卒業したのは、1904年である。
この二つの資料だけでは何とも言えないが、河井も大村も正造の見舞いに来る必然性はある。(A)(B)の二つの資料によって、1913年8月、重蔵の子息・弥八が重蔵と共に見舞いに来たといえるのかどうか。
つまり、他の資料が出てこないと、何とも言えない、ということである。