今月号の『世界』は、「慰安婦」問題などに対する『朝日』の訂正・謝罪とそれに伴って発生した『朝日』叩きに関する論考が3本ある。東大の石田英敬、フリー・ジャーナリストの西山太吉、青木理によるものである。
そのなかでも、青木の論考に同意するところが多かった。まず『朝日』の姿勢である。青木は、「・・要するに、朝日は屈したのだ。日本社会の「上部」にも「下部」にも黒々と根を広げる歴史修正主義の蠢きに、朝日は膝を屈してしまったのだ」という。
その理由。もし屈していないでの「検証」であったなら、訂正だけでおわるべきではなかった。
青木が言うように、「朝日は“反撃の矢”を用意してから検証記事掲載に踏み切るべきだった。精鋭の取材班を組み、徹底的な取材で新事実などもつかみ出し、まさに「慰安婦問題の本質」を浮かび上がらせる記事を時を置かずに連打し、攻撃と対峙するくらいの準備と覚悟を持つべきだった」のだ。しかし『朝日』はそれをしなかった。逆に、歴史修正主義者らの攻撃力を強化することになった。
この問題をはじめ、戦後補償問題にかつては全面的に関わっていたボクとしては、『朝日』の対応のまずさに唖然とした。青木が指摘するように、なぜ闘わないのか、と。
『朝日』は、「屈したのだ」。
ボクとしては、小泉政権時代の『朝日』の社説に驚愕して、すぐに『朝日』の購読をやめた経験から、『朝日』に期待するものはないのだが、しかし異常とも言うべき『朝日』バッシングには、デモクラットとして何かをせざるを得ない。『朝日』には、知り合いもいる。
ボクは、『朝日新聞』は「屈した」かもしれないけれども、そこにいる良心的な記者たちは決して屈していないと思う。そういう気概をもつ記者は、今も『朝日』にはいるし、いるはずだ。
石田英敬は、「歴史のターニング・ポイント」だという。ボクもそう思う。最近現在の政治社会情勢から必要性を覚えて、1930年代の歴史に関する本を読んでいるが、今回の『朝日』バッシングは、国民意識を大きく変えるポイントになるだろう。
しかし、そういう歴史を認識しているボクたちは、そう簡単に「ターニング・ポイント」にさせてはならないと思う。
そのなかでも、青木の論考に同意するところが多かった。まず『朝日』の姿勢である。青木は、「・・要するに、朝日は屈したのだ。日本社会の「上部」にも「下部」にも黒々と根を広げる歴史修正主義の蠢きに、朝日は膝を屈してしまったのだ」という。
その理由。もし屈していないでの「検証」であったなら、訂正だけでおわるべきではなかった。
青木が言うように、「朝日は“反撃の矢”を用意してから検証記事掲載に踏み切るべきだった。精鋭の取材班を組み、徹底的な取材で新事実などもつかみ出し、まさに「慰安婦問題の本質」を浮かび上がらせる記事を時を置かずに連打し、攻撃と対峙するくらいの準備と覚悟を持つべきだった」のだ。しかし『朝日』はそれをしなかった。逆に、歴史修正主義者らの攻撃力を強化することになった。
この問題をはじめ、戦後補償問題にかつては全面的に関わっていたボクとしては、『朝日』の対応のまずさに唖然とした。青木が指摘するように、なぜ闘わないのか、と。
『朝日』は、「屈したのだ」。
ボクとしては、小泉政権時代の『朝日』の社説に驚愕して、すぐに『朝日』の購読をやめた経験から、『朝日』に期待するものはないのだが、しかし異常とも言うべき『朝日』バッシングには、デモクラットとして何かをせざるを得ない。『朝日』には、知り合いもいる。
ボクは、『朝日新聞』は「屈した」かもしれないけれども、そこにいる良心的な記者たちは決して屈していないと思う。そういう気概をもつ記者は、今も『朝日』にはいるし、いるはずだ。
石田英敬は、「歴史のターニング・ポイント」だという。ボクもそう思う。最近現在の政治社会情勢から必要性を覚えて、1930年代の歴史に関する本を読んでいるが、今回の『朝日』バッシングは、国民意識を大きく変えるポイントになるだろう。
しかし、そういう歴史を認識しているボクたちは、そう簡単に「ターニング・ポイント」にさせてはならないと思う。