浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

企業のための大学

2014-10-02 22:40:02 | 社会
 10月1日の『中日』に、中村桂子氏の「大学の本質を否定する文科省」という文が載っていた。文科省は、これからの国立大学を「教員養成系、人文社会科学系は組織の廃止」して「社会的要請の高い分野へ」「転換」させようとしていることに対して、批判するものだ。

 日本の大学の学部学科は、ヨーロッパ流で始まった。法学部、文学部というように、学ぶ学問の特徴を端的に捉えることができる学部を設置していた。

 ところが、文科省の官僚がアメリカへ留学し、アメリカ流にすることが「正しい」と思うようになって、アメリカ流の、一体何を学ぶのかがわからない学部学科が設置されるようになった。そういう学部学科名でないと、文科省は設置を認めないのだ。たとえば国立大学から教養部がなくなって、その代わりに新しい学部をつくるときにそれが如実に示された。

 そして今度は、産業界のために、大学を専門学校、職業訓練校のようにしようというのだ。企業人としての即戦力を大学で育成するというわけだ。そのためには、歴史や哲学、文学なんかはいらないのである。

 1980年代くらいから、従来大学が拒否していた「産学協同」が唱えられ、今や「産学協同」があたりまえになった。ボクらが学生時代は、「産学協同路線反対」を主張していた。大学には大学の役割がある、中村氏が指摘するように「知の歴史に学び、そこから新しい知を生み出す研究を行い、それを基に考える若者を育てる」という大学がもつべき理念は、文科省からはとっくに捨てられている。今度は、そういう考え方を、国立大学から払拭しようというのだ。

 日本の支配層は近視眼であると思っているが、すべての政策がそれで貫かれている。少子高齢化の問題なんか、ずっとまえから分かっていたのに、大臣だけつくっておいて、実際には何もしてこなかった。

 国立大学を、企業のための組織に変容させようという文科省、考えてみれば、戦前の国立大学は、国家のための大学であった。今度は企業のための大学にするというのだ。

 日本の知は、いつも独立した価値を持たせられない。何かのための知、なのである。日本には、学問の独立はないのだろうか。



 
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日本近現代史を学ぶこと

2014-10-02 20:15:20 | 
 立花隆が、2005年に『天皇と東大』(文藝春秋)を刊行した、現在それは文春文庫・全四巻として発売されているが、これはなかなかよい本である。

 立花が、何故にこのような本を著したかというと、1945年の大日本帝国の「破滅」は、どのようにしてつくられたのか、という問いをもったからだ。そのために、立花は「東大と天皇」に焦点を絞った。それは妥当な判断である。近代日本国家は、天皇を主権者とする国家であり、天皇を中心として動いていたと言ってもよいだろう。そして東大は、いわずとしれた官僚(有司)の養成機関であり、彼らが官僚として、また政治家として政治・行政を担った。

 立花は、様々な資料を駆使して、その二つの動きを追う。それが同時に、日本の近現代史を追跡するということになっている。

 教えられることが多く、また知らなかった資料も知ることができる。

 ぜひ多くの方々に読んで欲しいと思う。

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