現在の日本は、ファシズムに向かっているのではないか、という現状認識にもとづき、想田はそれに対してどうしようとするのかという実践的な内容をもった本である。想田は、そういう現状から逃げずに、対峙していこうという姿勢をもつ。
帯には、「現代的なファシズムは、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものなのではないか。」とある。
「ファシズムに「熱狂」は必ずしも必要ないのではないか」(7頁)。確かにそうだ、日本社会全体を見れば、である。だがボクは、まったく「熱狂」がないとは思わない。一部に「熱狂」がある。その「熱狂」が、暴力的な行為と付随してやってきたとき、ファシズムは不動のものになるのではないかと思う。
戦前日本の日本型ファシズムを「天皇制ファシズム」という。確かに1930年代後半から、日本社会に「熱狂」が覆い始め、1941年12月からは国民がその「熱狂」に没入するようになった。だがそれ以前は、日本社会には「熱狂」はなく、一部の「右翼」らが「熱狂」的に動いていたのではなかったか。そして彼らがテロなどの暴力を背景にして政治権力を動かし始めたとき、「熱狂」が日本社会を席巻していったのではないか。
ドイツなどヨーロッパ的な「熱狂」のなかにファシズムが権力を掌握するということは、戦前日本でもなかったのではないだろうか。
だからボクは、現在と戦前(1930年代)とは、現象的にはあまり変わってはいないと思うのである。
「日本全体としてみれば、世の中は「恐るべき無関心」とでも呼ぶべき何かに厚く覆われている」(68頁)、そういう事態が1930年代にもあったのではないだろうか。そしてそのなかを「熱狂」した一部が盲動を始めた。
その「熱狂」が、暴力と既成の権力機構を利用して、「ものを言いにくい雰囲気」をつくりだし、そして「熱狂」という一つしかない道に国民を導いていき、そして破滅した。その道を、今また日本は歩み始めようとしている。
本書は、現在、ボクたちが生きる社会を、映像作家である想田が、ことばでもって分析し、そしてボクたちに警句を発する。
日本人は、昔から「基本的な信頼感」、為政者は自分たちをひどい目に遭わせるようなことはしないであろうという、そういう「信頼感」、まったく根拠のないそれを、持ち続けているのだろう。為政者はそれを利用して、経済的支配層と共に、カネを儲け、権力をふるい、庶民を支配してきたのだ。そういう心性は、丸山真男ではないが、「日本の古層」として存続してきた。力ある者になびく、同調するという心性。
だから、そうした心性を変えるのは、とてもとても難しい。「時流」をボクたちがつくり出さないかぎり、ボクたちが「力ある者」にならないと、変わらない。
この本、よい本である。教えられ、考えさせられる。
帯には、「現代的なファシズムは、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものなのではないか。」とある。
「ファシズムに「熱狂」は必ずしも必要ないのではないか」(7頁)。確かにそうだ、日本社会全体を見れば、である。だがボクは、まったく「熱狂」がないとは思わない。一部に「熱狂」がある。その「熱狂」が、暴力的な行為と付随してやってきたとき、ファシズムは不動のものになるのではないかと思う。
戦前日本の日本型ファシズムを「天皇制ファシズム」という。確かに1930年代後半から、日本社会に「熱狂」が覆い始め、1941年12月からは国民がその「熱狂」に没入するようになった。だがそれ以前は、日本社会には「熱狂」はなく、一部の「右翼」らが「熱狂」的に動いていたのではなかったか。そして彼らがテロなどの暴力を背景にして政治権力を動かし始めたとき、「熱狂」が日本社会を席巻していったのではないか。
ドイツなどヨーロッパ的な「熱狂」のなかにファシズムが権力を掌握するということは、戦前日本でもなかったのではないだろうか。
だからボクは、現在と戦前(1930年代)とは、現象的にはあまり変わってはいないと思うのである。
「日本全体としてみれば、世の中は「恐るべき無関心」とでも呼ぶべき何かに厚く覆われている」(68頁)、そういう事態が1930年代にもあったのではないだろうか。そしてそのなかを「熱狂」した一部が盲動を始めた。
その「熱狂」が、暴力と既成の権力機構を利用して、「ものを言いにくい雰囲気」をつくりだし、そして「熱狂」という一つしかない道に国民を導いていき、そして破滅した。その道を、今また日本は歩み始めようとしている。
本書は、現在、ボクたちが生きる社会を、映像作家である想田が、ことばでもって分析し、そしてボクたちに警句を発する。
日本人は、昔から「基本的な信頼感」、為政者は自分たちをひどい目に遭わせるようなことはしないであろうという、そういう「信頼感」、まったく根拠のないそれを、持ち続けているのだろう。為政者はそれを利用して、経済的支配層と共に、カネを儲け、権力をふるい、庶民を支配してきたのだ。そういう心性は、丸山真男ではないが、「日本の古層」として存続してきた。力ある者になびく、同調するという心性。
だから、そうした心性を変えるのは、とてもとても難しい。「時流」をボクたちがつくり出さないかぎり、ボクたちが「力ある者」にならないと、変わらない。
この本、よい本である。教えられ、考えさせられる。