浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

忘れない

2016-08-16 16:39:13 | その他
 被害者は、忘れない。別にこれは、歴史認識問題に限らない。自分自身の過去を振り返ればそうした例は思い浮かぶはずだ。

 私は中学校の時、職員室に座らされ、教師に頭を蹴られ転がされたことがある。そのときの情景は、今も思い出すことができる。もちろんその教師の名前、顔も覚えている。昔であるから、他の教師にびんたをもらったことがある。しかしこの場合は、掃除をさぼって外出したから、これは仕方がないと思っている、恨みはない。

 きっちり記憶に恨みを伴って残っているのは、「理不尽にふるわれた暴力」である。これは忘れない。「理不尽にふるわれた暴力」について謝罪を受けたとしても、それは記憶に残り続ける。ふるった者とふるわれた者との間、とりわけふるわれた者は、苦い記憶として両者の関係を通常ならざるものとして意識する。つまりその記憶が、両者の間に立ちはだかり、普通の関係を結べない。

 日本の過去の植民地支配や侵略戦争を調べると、そこには「理不尽にふるわれた暴力」が無数にある。勿論日本は、暴力をふるった側である。

 ふるわれた側は、決して忘れないし、子々孫々伝えていく。では両者の関係を通常なるものとして構築するためには、どうしたらよいか。

 それは、謝り続けることしかないのだ。両者の関係が通常ならざるものとするためには、その入り口で謝罪という行為が必要なのだ。

 人間の過去についての認識は、常に感情というものがまとわりついている。植民地支配や侵略戦争に関しては、個人的な記憶だけではなく、集合的な記憶としても存在し、それは悲しみや怒りといった感情と密接に結びつく。だからこそ、そうした被害を与えた国/地域の人々と交流するときには、別に謝罪を繰り返すこともないが、過去の事実をきちんと認識しておく必要がある。それは最低限必要なことだ。

さて、時が進む中で、そうした記憶を、まったくもたない人が、加害側はもちろん被害側の人々の中にも現れてくる。一面仕方がないことだが、しかし歴史認識はなおざりにしてはいけない。「理不尽にふるわれた暴力」の記憶は、決して消えないからだ。

  http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2846819.html?from_newsr 
コメント
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