浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

孤独

2016-08-20 23:30:22 | その他
 畑では、いろいろな会話をする。話していて思うことは、高齢者の孤独である。

 畑仲間には家族がいる。しかし、家庭ではほとんど話さないという。Sさんは夫と二人暮らし。夫はほとんど話さないという。テレビばかり見ていて、家事も何もしないそうだ。Gさんは、息子と二人暮らし。息子は会社員で独身、もう40才を超えている。息子とはほとんど話さないという。

 家庭でほとんど会話のない人が、畑で四方山話に興じる。畑に来るのが楽しいという。私は農作業をしながら、いろいろな話を聞く。

 こうした老人がたくさんいるのだろう。

 健康を維持しながら生きていくためには、高齢者たちの集う場が必要だとつくづく思う。家族といても孤独を感じる高齢者が増えているのだ。

 しかし女性はこうして外に出てくるからいいが、男性は出てこない。テレビとずっと対面しているだけだ。これではいけないと思う。何とかしなければ・・・・・・ 
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【本】子安宣邦『「大正」を読み直す』(藤原書店)

2016-08-20 23:05:50 | その他
 子安氏の日本の思想史に関わる著書に、私はたいへん刺激を受けている。読みの深さと、現代に対する問題意識がうまく折り重なって、学ぶところが多い。

 あの全体主義的な「昭和」をつくりだしたのは、「大正」という時代ではなかったかという問題意識の下に、明治末から「大正」の事件や思想を検討する。

 とりわけ大逆事件、そして大杉栄等の虐殺事件を検討したところに、考えさせられた。

 1910年の大逆事件で、幸徳秋水らが殺された。幸徳は、「直接行動論」を訴えていた。そして1923年9月16日、大杉栄を国家権力が葬った。大杉は、アナーキストと呼ばれる。これらの事件により、「直接行動論」と「アナーキズム」が殺された。まず国家権力が殺し、それが契機となって、国民も「直接行動論」とは何か、「アナーキズム」とは何かを問うことなく、捨て去り殺してしまった、と子安氏は指摘する。

 確かに、「直接行動論」や「アナーキズム」は、マイナスイメージとして捉えられるようになり、それが現在でも引き継がれている。何か、怖いものででもあるかのように、それらは扱われる。

 私たちは、これらの考え方が、もっとも国家権力を恐怖させるものであったのではないか、ともう一度思いをはせる必要があるのではないか。

 なぜ彼らは殺されたのか?

 戦後の日本においても、冤罪であるにもかかわらず、大逆事件によって殺された人々の無実は認められていない。戦後に行われた再審請求は、却下された。現在の日本は、大逆事件を大逆事件としてそのまま認めている社会なのである。

 だから、幸徳や大杉の思想を復権させることが求められているのではないか。

 とてもよい本である。
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安丸良夫氏のこと

2016-08-20 08:07:51 | その他
 歴史家の安丸良夫氏が亡くなられていた。このことについては、広田先生から伝えられ、『現代思想』に「追悼文」を書くという連絡があった。先日そのコピーが送られてきた。目次と共に送られてきたので、これは読まなければならないと思い、Amazonに注文。昨日到着した。『現代思想』9月号臨時増刊号である。

 安丸氏の著作は、何冊か持っている。読んでいないものもあるが、私がもっとも熱心に読んだのは『神々の明治維新』(岩波新書)である。私は、神社本庁などが画策している「国家神道」復活運動が、日本を再び「大日本帝国」の時代に戻そうという動きの一環であると認識し、「国家神道」は決して日本の伝統ではなく、近世後期の国学にルーツ持った特異な思想で、それが明治維新で作為的に創造されたものであるということを各所で話している。9月にもこれを話すが、その際、様々な文献を読みこなすのだが、なかでも安丸氏の『神々の明治維新』はとても役に立つ。

 さて『現代思想』9月臨時増刊号に掲載されている文、あるいは対談など、少しだけ読み始めているが、何とまあ、学者というのはすごい!と思った。

 安丸氏は長期間にわたって、刺激的な著作を何冊も出している。『日本の近代化と民衆思想』はじめ、私の書棚にも並んでいる。しかし漠然とそれらの内容は私の記憶にあるのだが、細かくそれらについて話す、あるいは書くと言うとき、もう一度読まなければとても話したり書いたりできるものではない。

 だが例えば座談会に参加されている方々は、それらの内容がきちんと頭の中に入っていて、それも安丸氏の研究を時系列に論じることができるのである。私は、多くの学者と交流があり、そのなかで「すごい人!」だと思う人が何人もいるが、座談会に参加している方々の発言を読むと、ただただ関心してしまう。
 
 同時に、安丸氏の研究をあまり熱心に読んできていない私にとって、安丸良夫氏はそれこそ「すごい人!」であると再認識させられるのである。

 私は今までにいろいろな研究をしてきた。自治体史編纂の事業に関わってきているので、その編纂の過程で発見された史料を読む中で、一定の普遍性をもつとおもわれる史料をもとに、いろいろな関連する文献を読み込んで歴史過程(事件)としてまとめ、当該自治体の歴史に織り込むということをやってきた。そこではどんな史料がでてくるのかわからない。でてくる史料に関連した研究を進めるわけで、したがって研究分野は多方面に広がる。今は一九八〇年代以降の自治体の施策について勉強しなければならない状況にある。

 本書の対談の中で、喜安朗氏はこう語っている。

 「史料を読むなかで、それをどのように形づくるかを考えて、方法や概念が生まれてくる。厚い記述という表現がありますが、歴史家はいろいろな言説を考えながら、そのすべてを書くわけではありません。言説のうちで、時間的にも空間的にも収斂が可能だろうと想定できるものを探し出す。それが記述におけるプロットになるわけです。概念や方法とは、そのプロットを展開させていくうえで登場するものでしょう。」

 私も、そのまねごとをしているのだなあと思った次第である。
 
 この本を時間を見つけては読み、安丸氏の「すごさ」を知っていきたいと思う。

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