浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ジャーナリズムのない社会で

2016-08-07 21:34:11 | その他
 『世界』今月号の、政治学者中野晃一氏と憲法学者の青井未帆氏の対談、「「改憲」を打ち返す市民の力」は、示唆に富む議論となっている。

 最初に現行の公職選挙法のことを論じているが、それは1925年の「大日本帝国」下の普通選挙法の伝統を色濃く持っていること、したがって国民主権の社会の選挙法とは思えないほど制約がいっぱいあるものであることは知られているのだろうが、今はそれには触れない。

 青井氏のこの発言はきわめて重要なことだと思う。
 
 エセックス大学の藤田早苗氏が日本の大学でこう質問したそうだ。

 メディアは国家の側にあるべきか、中立であるべきか、市民の側なのか

 多くの学生が、「中立」に挙手したそうだ。

 しかし、ジャーナリズムとしてのメディアは、明確に市民の側になければならない。

 「ジャーナリズムは市民の側に立つパブリック・ウォッチドッグである」ーこれはある種の定理である。

 しかし日本には、そうしたジャーナリズムの精神が、すーっと消えてしまっている。

 青井氏はこう語る。

 ジャーナリズムのない社会で改憲論議を迎えようとしている。
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愚直であること

2016-08-07 07:16:11 | その他
 「愚直」とは、「バカ正直」という意味。辞書によれば「正直すぎて融通が利かないこと」ということなのだが、時代の流れに流されず、これだと思うことにこだわりつづけるという意味で使われることもある。

 今日の『中日新聞』の神谷円香さんの「ニュースを問う」に記されていたのは、時流に流されず、ビキニの水爆実験で被曝した漁民にこだわりつづけるジャーナリストをとりあげたものだ。第五福竜丸のビキニ被曝は有名ではあるが、当時、日本の漁船がたくさん被曝した海域で操業していた。したがって、被曝は第五福竜丸ではなかったのだが、しかし政府も社会も広汎な被曝の事実を調査しようとしなかった。

 その埋もれた事実を発掘していった高校生らがいたが、それもいつしか忘れ去られていった。静岡で毎年行われている「ビキニ・デー」のように継続して取り上げなければ、いつしか忘れられてしまう。

 そういうなかでも、この問題を追及しつづける南海放送の伊東ディレクターをとりあげた記事、それが今日の神谷さんの記事だ。

 神谷さんは、伊東さんがこだわりつづけている姿を「愚直」と表現した。

 私は、伊東さんのことを記したその中身よりも、「愚直」ということばに反応した。

 現在のような、「愚」がはびこり、「愚」が政治権力を掌握し、経済政策でも、外交政策でも、まさに今までの「知」の集積を足蹴にしながら突き進む現在、そしてその「愚」を広汎な日本国民が支えるという姿にあきれているのであるが、そういう時代にあってどのように生き動いていくかと考えるとき、「愚直」に生きていくことこそが、その答えであると思い当たったのだ。

 もちろん、その「愚直」とは、辞書的な意味ではなく、時流に流されず、これだと思うことにこだわりつづける、という意味での「愚直」なのであるが、振り返ってみれば、近代日本の歴史は、表の歴史の裏側に「愚直」に生きた人々の骸が累々と横たわっている。そういう存在が、いずれは、日本の、いや人類の未来を照射していくのだろうと思う。

 私は、そうした人々の「復権」を図り、人々に語り続けなければならないと思う。「愚」がはびこる時代だからこそ、「賢」に生きた人々を伝えていかなければならない。

 
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