「シャガール展」 千葉市美術館

千葉市美術館千葉市中央区中央3-10-8
「シャガール展」
6/16-7/29



あちこちの美術館で目にする機会も多いシャガール(1887~1985)ですが、いわゆる回顧展に接したのは今回が初めてです。油彩、エッチング、リトグラフなど全42点の作品(ほぼ国内美術館の所蔵品。)にて、シャガールの画業を年代別に追いかけます。

展示は、シャガールが故郷ヴィテブスク(現在のベラルーシ。)よりパリへと出て、画家のキャリアを築き始めた1910年の頃からはじまりました。この時期はキュビズムの影響が著しく、例えば後の幻想的な作風を見出すのは困難ですが、「静物」(1911-12)における透明感のある青みは、後のシャガールの色彩を彷彿とさせる部分もあります。瓶やカップなどをキュビズムに消化し、そこへかの鮮やかなブルーを一面に散らせているのです。



1915年にパリでベラと結婚したシャガールは、一時故郷へ行き美術学校を設立しますが、そこでかのマレーヴィッチらと対立し、1922年に再びパリへと戻ってきます。(*1)その後、第二次大戦が勃発し、ユダヤ人であった彼はナチスの迫害を避ける為、アメリカへと亡命(1941年)しました。結果、終戦後の1948年にまたパリへと戻るわけですが、その間に最愛のベラを亡くしてしまいます。そしてこの間、シャガールは独自の神秘主義的(*2)とも言えるスタイルを確立していくわけです。二人の寄り添う男女を描いた「青い恋人たち」(1948-53)における愛の表現は、ちょうどシャガールが、失ったベラを呼び戻さんとばかりに女性を抱き寄せている構図のようにも思えます。横を向いて通り過ぎ行く女性はもはやこの世の存在ではなく、一人男性だけが、ただ寂し気な面持ちで必至に彼女をとどめようとしているのです。



南仏のサン・ポール・ド・ヴァンスに定住したシャガールは、1952年に新しい恋人、通称ヴァヴァと再婚しました。(この時のシャガールは65歳です。)これ以降、彼は、色や形にのびやかな「愛」をモチーフとする作品を数多く制作していきます。ちらし表紙を飾る「枝」(1956-62)は、花嫁姿を思わせる女性も登場する、まさに結婚の主題を思わせるような作品です。天使の祝福し、ブーケも舞う青の空間の中を寄り添うカップルが、どこか幽玄的な味わいにて描かれています。そしてここで気になるのは、その背景、つまりは青みへ溶け込みながらスッと左へ流れていく影のような女性です。もしこのカップルをシャガールとヴァヴァとすれば、それはベラの姿ではないでしょうか。シャガール自身がかつてのパートナーとの生活(*3)を振り返りながら、今の幸せを思う作品なのかもしれません。



「わが生涯」や「聖書」シリーズなどの版画の展示も見所の一つです。ここで紹介されている版画の多くは、比較的早い頃に手がけられたエッチングなどの黒一色の作品です。残念ながら「聖書」及び、「ダフニスとクロエ」については、会場スペースの都合で、その一部(前者は全105点のうち51点。後者は全42点のうち14点。)が紹介されるのみですが、それらはどれも素朴な温もりを感じる佳作ばかりでした。聖書では「ヤコブと天使」や「出エジプト」、それに上に作品画像を挙げた「アブラハムの犠牲」などの馴染みあるエピソードが頻出します。黒のシャガールもまた新鮮で面白いものです。

いわゆる大作揃いの展覧会ではありませんが、適度な作品数にてシャガールを楽しめる好企画だったと思います。実際、私自身も、元々シャガールに惹かれる部分があまりなかったのですが、この回顧展に接して初めてその魅力に触れることが出来ました。

明日の日曜日、29日までの開催です。(7/22)

*1 1918年、ロシア革命政府文化相ルナチャルスキーの信を得て美術学校を設立。校長に就任するも、自身の作風が当時の主流の抽象主義に比べて時代遅れと見なされる。のち、絶対主義の提唱者であった教授マレーヴィッチらと対立し、全校を巻き込んで争うが、結果的に校長を辞してヴィテブスクを去った。

*2 シャガールは「神秘的」という言葉について、「純粋で高潔で無垢な形において受け止める。」と述べている。

*3 資産家の娘であったベラに対し、貧しい画家に過ぎないシャガールとの結婚には反対も多かった。(*は全てキャプション、及び展覧会パンフレットより引用。改変。)
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