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最澄と空海は804年に遣唐使として唐へ渡りますが、最澄は宮廷の侍僧として派遣され、空海は私度僧として留学していますので身分や扱いは随分と違ったことでしょう。
いわゆるエリート官僚のような立場であった最澄と、在野の一人の僧であった空海が後に日本の密教界の両巨頭となったのはある意味で興味深い話です。
さらに最澄は1年間の留学予定でしたが、空海は20年後に帰国するように命じられていたそうですから、すぐに帰国して欲しいと望まれて渡唐した最澄と短期での帰国を望まれなかった空海とでは宮廷の期待度にもかなり落差があったようです。
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結局のところ空海は、青龍寺の恵果和尚より密教の奥義を伝授され、約半年間の修行で胎蔵界・金剛界の灌頂を受けて、2年間の留学で帰国してしまいます。
これは空海は唐に渡る前にすでに密教の知識を得ていたという説もあり、密教習得の準備万端で唐へ渡った確信犯といった感があります。
空海は20年の留学の約束を2年で切り上げてしまったためそのまま都へ入ることは叶わず、太宰府に数年の滞在をした後に京都高雄の神護寺へ入り14年間滞在したとされます。
京都・東寺や高野山・金剛峯寺での空海の活躍はその後の時代になるということになります。
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寺院近くの駐車場に車を停めて寺院へ向かおうとすると、駐車場のおじさんが熱心に寺の歴史や見所、参拝順序などについて説明してくださります。
同世代くらいかと見えましたが、“今日は蒸し暑いので一回りすると汗びっしょりになるだろうから、戻ってきたらそこの清滝川の冷たい水でひと泳ぎするといいよ。”と真面目な顔でおっしゃられるので少々驚きます。
“石段が結構キツいけどだいたい20分くらいで登れるよ。”と言われて登りかけましたが、覚悟して登ったこともあってか?この石段はあっけなく登りきることが出来ました。
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参道を上り詰め、楼門が見えてくるようなると石段の幅が広くなり、青モミジの美しさに楼門が実に良く映えて見えます。
神護寺は紅葉の名所だそうですが、青モミジの季節も非常に美しいと思います。最高気温が35℃を超える時期でしたから訪れる人も少なかったですしね。
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楼門には左右に仁王像が睨みを効かせていましたが、神護寺の仁王様は筋肉隆々にデフォルメされた像ではなく、リアルなマッチョといった印象を受ける像でした。
この楼門は江戸初期の1623年の建立とされます。
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境内には堂宇がいくつかありましたが、駐車場のおじさんから“まずかわらけ投げで厄除けしてから金堂へ行くのがよい。”と言われていましたので、言いつけ通りにまずは“かわらけ投げ”で厄除けを致しました。
どこを狙ったらいいのかよく分らないままに真っ直ぐ遠くへ投げようと気合を入れて投げたものの、3投全てがヘナヘナと落ちて行ってしまいました。
かわらけ投げは不調に終わりましたが、この高雄の景色はホント山ばかりで、山中の古刹にいるのが堪らなく嬉しくなってくる。
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さて金堂へ行くにもまた雰囲気のいい石段がありました。
神護寺は平安時代に2度焼失していて、1184年に後白河法皇の勅許を得て、源頼朝の援助もあって往年以上の復興を果たしたとされます。
しかし応仁の乱によって再び焼失。1623年に楼門・毘沙門堂・五大堂・鐘楼を再興、現在の金堂と多宝堂は1934年に新築されたものとされます。
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この神護寺は空海と縁の深い真言宗の寺院ですが、開基は平安京造営の責任者であった和気清麻呂とされます。
清麿はここ高雄に愛宕五坊の一つとして高尾山寺を建立し、清麿の祈願寺であった神願寺を824年に合併して「神護国祚真言寺」と寺名を改めたそうです。
最澄や空海が入山したのは高尾山寺の頃に和気一族に招かれたからといわれます。
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神護寺金堂には真言密教由来の仏像が数多く祀られていましたので、かなり興奮して拝観させていただきました。
本尊は国宝の薬師如来立像。両脇には向かって右に重要文化財の日光菩薩立像、左に同じく重要文化財の月光菩薩立像(共に平安時代前期)。
その横には室町時代の十二神将立像が6躰づつ並び、両端には四天王(右に多聞・持國、左に広目・増長)が守護しています。
その他にも阿弥陀如来坐像(鎌倉期)、愛染明王(鎌倉期)が祀られ、昭和時代の大黒天・如意輪観音・地蔵菩薩・弁財天と須弥壇・脇陣に仏像が並びます。
内陣に座って当方があまりに熱心に見ていたこともあってか、僧侶の方から“神護寺は初めてですか?”と聞かれ、“仏像に見惚れてました。”と答えると寺歴や仏像について説明をしてくださり助かりました。
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「薬師如来立像」(国宝)・・・ポストカード
御本尊の国宝・薬師如来像は像高約170cmのカヤの一本造りでその表情も相まって威圧感を感じる仏像です。
手の位置がやや高く、右手には施無畏印を結び、左手には薬壺をお持ちの平安時代初期の延暦年間の作の非常に力強い感じのする貞観仏ということになります。
この薬師如来立像は写真家・土門拳も撮影されており、土門さんは“「好きな仏像は」と問われれば、即座に「神護寺 薬師如来立像」と答えるのが常である。”と言葉を残されています。
以前に購入した土門拳の写真集を改めて見直してみると、確かにこの薬師如来像の鬼気迫るような写真が載せられていました。
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「薬師如来立像」(国宝)・・・ポストカード
神護寺にはもう1躰、重文の薬師如来がありますが、その仏像は薬師如来像は京都国立博物館に寄託されています。
実はその仏像は京都国立博物館で開催された「海北友松展」での「仏像入門」の展示室にも展示されていたのを記憶していますが、どんな仏像だったかとなると記憶が曖昧となってしまいます。
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十二神将(室町期)・・・パンフレット
神護寺にはもうひとつ国宝の仏像があり、多宝堂の中に収められていますが、通常非公開で春と秋の特別公開の時しか見ることは出来ないようです。
その仏像は「五大虚空像菩薩像」という5躰の仏像で、写真は公開されているので雰囲気は分かります。
特別公開の時は訪れる人が多いそうですから、金堂の内陣には入れなくするようですので両方の仏像をを観て堪能するというのは難しくなるようですね。
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境内の堂宇は、「重文・毘沙門天立像(拝観不可)を祀る毘沙門堂(江戸時代)」・「重文・板彫弘法大師像(秘仏)を祀る建物としても重要文化財の大師堂」・「五大堂(江戸時代)」などが立ち並びます。
僧侶の方から説明のあった明王堂の話では、神護寺にはかつて弘法大師が彫られたとされる不動明王像がありましたが、その像は平将門の乱の時に関東へ出開帳され、御本尊として成田山新勝寺が建立されたとされます。
現在の明王堂の不動明王像は、平安時代の後期に神護寺に収められた仏像と考えられているそうです。
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さらに興味深い話として、成田山新勝寺は歌舞伎の市川家とつながりが深く、成田山の山号から「成田屋」の屋号にもつながっているとの話があります。
不動明王ゆかりの逸話があってのことなのかもしれませんが、神護寺の明王堂には七代目市川團十郎の筆になる扁額が掛けられていました。
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寺院の出口付近には空海が硯に見立てたとされる硯石が祀られていました。
この硯石にも空海ゆかりの逸話があるようですね。
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寺院を出て駐車場まで戻ってくると、再び駐車場のおじさんとの話の再開です。
“これから何処へ行くんですか?高雄を巡ってみるとまだ見所がありますよ。”と言われたのですが、“市内へ出て行きたい所がありますので。”としばらく話をしてお別れする。
神護寺への道は季節柄もあって走行する車はほとんどないのですが、このおじさんは道路の真ん中まで出てきて満面の笑顔で大きく大きく手を振って見送ってくれています。
その姿はゆるやかなカーブを過ぎてルームミラーで後方が見えなくなるまでそのまま見送ってくださっているのが確認出来ます。
感動してしまうくらい大きく大きく大きく手を振られている...その姿が未だに心に焼きついています。