甲賀市というと大抵の人がまず思い浮かべるのは「甲賀忍者」だろうと思いますが、それは戦国時代~江戸時代を描いたドラマや時代小説に頻繁に忍者が登場することにあるのでしょう。
昔懐かしい子供ドラマの「仮面の忍者 赤影」の第1部と2部にも祈祷師・甲賀幻妖斎が率いる甲賀流忍者七人衆が暗躍する金目教や卍党が登場したのがある年代層の方には記憶に残ります。
甲賀地方は古来より巨石信仰や山岳信仰が盛んだった地とされ、修験道の山中修行の山ともなっていたといい、奈良の大峰山と関わりが深いといいます。
甲賀忍者は甲賀の山中で修行した修験道者が、忍者のもとになっていったともされていて、甲賀の山は現在も修験道の痕跡が残る神仏習合の霊山となっています。
甲賀には「甲賀三霊山」と呼ばれる霊山があり、「岩尾山(息障寺)」「飯道山(飯道神社)」「庚申山(広徳寺)」の3つの山を指すという。
巨石と巨大な屏風岩に彫られた摩崖不動明王立像のある「岩尾山(息障寺)」へは既に参拝済みですので、今回は2つ目の霊山「庚申山(広徳寺)」へ参拝に訪れました。
庚申山は飯道山の南東の尾根につながる山の頂上にあり、ハイキングコースがありますが、舗装された林道(広徳寺)がつながっているためショートカットして広徳寺の近くまで車で登りました。
広徳寺は783年、伝教大師・最澄がこの地に庚申尊を祀られたのが始まりとされる天台宗寺院になります。
庚申信仰は道教の「三尸説」をもとに密教・神道・修験道・呪術的な医学や民間信仰・習俗が混合した信仰とされ、広徳寺の御本尊は「青面金剛童子」であるといいます。
正式名「瑞応山 竜華院 広徳寺」は、複数の信仰が混合した寺院であることが影響しているためなのか、寺院であるにも関わらず、本堂への石段前には鳥居があり、庚申尊の扁額が掛けられている。
本堂の横には歴史を経ていそうな宝篋印塔が祀られていたので裏側に回って刻印を確認すると、明和7年(1770年)とあり、干支は「庚申」ではなく「庚寅」。
江戸時代中期の宝篋印塔ですから石塔の世界ではそれほど古くはないものの、約250年前に造られた石塔です。
本堂はかなり新しい印象を受けるが、それもそのはずで本堂は2013年に漏電とみられる火災で全焼。現在の本堂は2017年に落慶されたといいます。
本堂には庚申の申(猿)と縁のある“さるぼぼ”がたくさん吊るされていて、信仰の篤さが感じられます。。
広徳寺には地元の百姓・藤左衛門が断食修行中に現れた童子から、銅と亜鉛を配合する合金製法を授かったと伝えられたという伝承が残り、真鍮精錬の始まりになった場所とされます。
真鍮精錬で財を成した藤左衛門が1616年に謝恩のため再建したとされる本堂は先述の火災で存在していませんが、再建にあたっては地元の方以外にも伸銅メーカーの尽力があったといいます。
本堂の裏側には磐座があり、磐座は石垣によって支えられ、転倒防止のための金属ネットが取り付けられています。
磐座の一部には火災によって焼かれた跡が残り、業火の激しさを岩肌に伝えています。
磐座は「丈余の岩」といい783年に、最澄が延暦寺建立の際に用材を求めて訪れたところ、紫雲たなびくのを見て頂上に登ると、「丈余の岩」に稲妻が発し、忽然と童子が現れ、お告げがあったという。
最澄は、大青面金剛の霊姿を感得され、像を自作して祀ったのが寺院の始まりと伝わる。
山頂の寺院ということもあって境内は限られた場所にとどまりますが、鐘撞堂の奥には見晴らしの良い展望台が設けられています。
庚申山や飯道山の連なる山塊は、緑に覆われ、あちこちから聞こえるウグイスの囀りが心地よい。
直下の平野には水を張った水田が鏡のように空を写し出し、かなたには鈴鹿山脈が連なるのが影のように見えます。
案内板には鈴鹿山脈のピークが十座ほど書かれていたが、どこがピークかは分からず、鈴鹿山脈の連山だけが印象に残る。
ここからは霊仙山や伊吹山が見えるとあったものの、こちらも霞んでしまって識別不能。
東側の逆光方向には谷合いにまで水田が伸びてきていて平地を無駄なく田圃にしている様子が分かる。
鈴鹿山脈はこの方向まで続いており、登山好きの間では「鈴鹿十座」とか「鈴鹿セブンマウンテン」とか呼ばれてトレッキングを楽しまれている方が多いとか。
展望台の横には庚申山の三等三角点。
周辺には大峰山三十三度記念碑が複数建てられていて、庚申山や飯道山と大峰山との修験のつながりの深さが伺われます。
庚申山の山頂からの景色を楽しみ、広徳寺への参拝を終えた後、表参道を下ってみることにする。
急勾配の木段を下っていく道は登山道そのもので、降りてしまったことを後悔しつつも道を進みます。
木段が終わると今度は巨石がゴロゴロとした荒れた道になってくる。
なんか忍者か修験者が歩くような道やねと思いつつ下っていきますが、全くひとけのない山ですので少し薄気味のが悪さを感じます。
その時に見えてきたのは壁のような巨石「祈りの双巌」です。
広徳寺の本堂の裏の磐座「丈余の岩」よりも大きいのではと思われるこの大岩と巨石の道では、修験道の儀式が行われていたのではないかと考えてしまうような神秘的な場所です。
巨大な1枚岩の祈りの双巌から道を下っていっても荒れ気味の岩の道が続きますが、この道は2013年の豪雨による土石流の道となってしまい、まだ復興途中ということです。
標高406.9mの低山ですが、登山口から登ると結構大変かもしれませんね。
もう少し下ると「神降 不老の瀧」の石碑が見えてくる。
“神降”は神霊を祭場に招き迎えることの意味だと思いますので、参道の大岩では祭事が行われていたと考えてよいのではないかと思います。
もしくはこれより上が神が宿る神体山となる結界の一部なのかもしれません。
ただし、滝と名は付いていても水は岩陰を流れるのみで、何本もの倒木があり荒れ果てています。
かつて滝行が出来る場所だったのかは、今となっては分からなくなっています。
表参道はどこかで周回コースと交差するはずでしたが、そのまま下りが続いているように見え、あまり降りてしまうと登り返しで苦労しそうなので、迷った末にここから来た道を登り返します。
山頂までたいした距離はないとはいえ、旧勾配のため、ふくらはぎに負担がかかっているのを感じながらの登り返しでした。
甲賀地方では所々で見かける「忍びの里 甲賀 伊賀」の看板の上には忍者の姿。
忍者ものは今の時代でもドラマや映画、小説やアニメに登場する忍者は、決して表舞台には出ないミステリアスな存在として暗躍する姿を描かれることが多く、その存在は謎ゆえに人を魅了するのでしょう。
昔懐かしい子供ドラマの「仮面の忍者 赤影」の第1部と2部にも祈祷師・甲賀幻妖斎が率いる甲賀流忍者七人衆が暗躍する金目教や卍党が登場したのがある年代層の方には記憶に残ります。
甲賀地方は古来より巨石信仰や山岳信仰が盛んだった地とされ、修験道の山中修行の山ともなっていたといい、奈良の大峰山と関わりが深いといいます。
甲賀忍者は甲賀の山中で修行した修験道者が、忍者のもとになっていったともされていて、甲賀の山は現在も修験道の痕跡が残る神仏習合の霊山となっています。
甲賀には「甲賀三霊山」と呼ばれる霊山があり、「岩尾山(息障寺)」「飯道山(飯道神社)」「庚申山(広徳寺)」の3つの山を指すという。
巨石と巨大な屏風岩に彫られた摩崖不動明王立像のある「岩尾山(息障寺)」へは既に参拝済みですので、今回は2つ目の霊山「庚申山(広徳寺)」へ参拝に訪れました。
庚申山は飯道山の南東の尾根につながる山の頂上にあり、ハイキングコースがありますが、舗装された林道(広徳寺)がつながっているためショートカットして広徳寺の近くまで車で登りました。
広徳寺は783年、伝教大師・最澄がこの地に庚申尊を祀られたのが始まりとされる天台宗寺院になります。
庚申信仰は道教の「三尸説」をもとに密教・神道・修験道・呪術的な医学や民間信仰・習俗が混合した信仰とされ、広徳寺の御本尊は「青面金剛童子」であるといいます。
正式名「瑞応山 竜華院 広徳寺」は、複数の信仰が混合した寺院であることが影響しているためなのか、寺院であるにも関わらず、本堂への石段前には鳥居があり、庚申尊の扁額が掛けられている。
本堂の横には歴史を経ていそうな宝篋印塔が祀られていたので裏側に回って刻印を確認すると、明和7年(1770年)とあり、干支は「庚申」ではなく「庚寅」。
江戸時代中期の宝篋印塔ですから石塔の世界ではそれほど古くはないものの、約250年前に造られた石塔です。
本堂はかなり新しい印象を受けるが、それもそのはずで本堂は2013年に漏電とみられる火災で全焼。現在の本堂は2017年に落慶されたといいます。
本堂には庚申の申(猿)と縁のある“さるぼぼ”がたくさん吊るされていて、信仰の篤さが感じられます。。
広徳寺には地元の百姓・藤左衛門が断食修行中に現れた童子から、銅と亜鉛を配合する合金製法を授かったと伝えられたという伝承が残り、真鍮精錬の始まりになった場所とされます。
真鍮精錬で財を成した藤左衛門が1616年に謝恩のため再建したとされる本堂は先述の火災で存在していませんが、再建にあたっては地元の方以外にも伸銅メーカーの尽力があったといいます。
本堂の裏側には磐座があり、磐座は石垣によって支えられ、転倒防止のための金属ネットが取り付けられています。
磐座の一部には火災によって焼かれた跡が残り、業火の激しさを岩肌に伝えています。
磐座は「丈余の岩」といい783年に、最澄が延暦寺建立の際に用材を求めて訪れたところ、紫雲たなびくのを見て頂上に登ると、「丈余の岩」に稲妻が発し、忽然と童子が現れ、お告げがあったという。
最澄は、大青面金剛の霊姿を感得され、像を自作して祀ったのが寺院の始まりと伝わる。
山頂の寺院ということもあって境内は限られた場所にとどまりますが、鐘撞堂の奥には見晴らしの良い展望台が設けられています。
庚申山や飯道山の連なる山塊は、緑に覆われ、あちこちから聞こえるウグイスの囀りが心地よい。
直下の平野には水を張った水田が鏡のように空を写し出し、かなたには鈴鹿山脈が連なるのが影のように見えます。
案内板には鈴鹿山脈のピークが十座ほど書かれていたが、どこがピークかは分からず、鈴鹿山脈の連山だけが印象に残る。
ここからは霊仙山や伊吹山が見えるとあったものの、こちらも霞んでしまって識別不能。
東側の逆光方向には谷合いにまで水田が伸びてきていて平地を無駄なく田圃にしている様子が分かる。
鈴鹿山脈はこの方向まで続いており、登山好きの間では「鈴鹿十座」とか「鈴鹿セブンマウンテン」とか呼ばれてトレッキングを楽しまれている方が多いとか。
展望台の横には庚申山の三等三角点。
周辺には大峰山三十三度記念碑が複数建てられていて、庚申山や飯道山と大峰山との修験のつながりの深さが伺われます。
庚申山の山頂からの景色を楽しみ、広徳寺への参拝を終えた後、表参道を下ってみることにする。
急勾配の木段を下っていく道は登山道そのもので、降りてしまったことを後悔しつつも道を進みます。
木段が終わると今度は巨石がゴロゴロとした荒れた道になってくる。
なんか忍者か修験者が歩くような道やねと思いつつ下っていきますが、全くひとけのない山ですので少し薄気味のが悪さを感じます。
その時に見えてきたのは壁のような巨石「祈りの双巌」です。
広徳寺の本堂の裏の磐座「丈余の岩」よりも大きいのではと思われるこの大岩と巨石の道では、修験道の儀式が行われていたのではないかと考えてしまうような神秘的な場所です。
巨大な1枚岩の祈りの双巌から道を下っていっても荒れ気味の岩の道が続きますが、この道は2013年の豪雨による土石流の道となってしまい、まだ復興途中ということです。
標高406.9mの低山ですが、登山口から登ると結構大変かもしれませんね。
もう少し下ると「神降 不老の瀧」の石碑が見えてくる。
“神降”は神霊を祭場に招き迎えることの意味だと思いますので、参道の大岩では祭事が行われていたと考えてよいのではないかと思います。
もしくはこれより上が神が宿る神体山となる結界の一部なのかもしれません。
ただし、滝と名は付いていても水は岩陰を流れるのみで、何本もの倒木があり荒れ果てています。
かつて滝行が出来る場所だったのかは、今となっては分からなくなっています。
表参道はどこかで周回コースと交差するはずでしたが、そのまま下りが続いているように見え、あまり降りてしまうと登り返しで苦労しそうなので、迷った末にここから来た道を登り返します。
山頂までたいした距離はないとはいえ、旧勾配のため、ふくらはぎに負担がかかっているのを感じながらの登り返しでした。
甲賀地方では所々で見かける「忍びの里 甲賀 伊賀」の看板の上には忍者の姿。
忍者ものは今の時代でもドラマや映画、小説やアニメに登場する忍者は、決して表舞台には出ないミステリアスな存在として暗躍する姿を描かれることが多く、その存在は謎ゆえに人を魅了するのでしょう。