近江八幡市と東近江市に跨る「岩戸山・小脇山・箕作山、赤神山(太郎坊)」の山系は「阿賀神社(太郎坊宮)」や「瓦屋禅寺」「岩戸山十三仏」などが祀られる信仰の山です。
特に「瓦屋禅寺」や「岩戸山十三仏」は聖徳太子ゆかりの伝承が残り、同じ地域にある西国三十三所札所の「観音正寺」や「長命寺」とともに聖徳太子信仰の盛んな山となっています。
また、湖東地方の山は「湖東流紋岩類」という地質で出来ているといい、その影響によるものか巨岩が多く見られます。
この山系でも太郎坊宮が祀られる赤神山の巨岩や岩戸山の巨岩など磐座信仰が色濃く残り、甲賀や大津の巨岩信仰とは少し違った形での信仰の姿が見られるように思います。
大きな竹林の間を進むと「新四國八十八箇所霊場」の石碑があり、岩戸山の登山道(石段)が始まります。
岩戸山には全部で百六十躰の石仏が安置されているといい、山頂近くの巨石まで石仏が並ぶ道を進むことになります。
登山口には竹林が広がっており、その一角に「山之神」が祀られているのを見つけました。
同じ地域の近江八幡市安土町内野では年頭行事として村の外れに「勧請縄」を吊るす習慣が残り、その形態は道切り本来の形とされています。
岩戸山の山麓に山之神、田園地帯には野神が祀られ、山頂には磐座を祀りと古い民俗信仰が残されている地なのが実感出来ます。
「山之神」は石の正面に御幣が置かれ、横には祠の中に男女を模した木像が祀られています。
山之神は春から秋にかけて山から平地に下り、野に豊穣をもたらす野神となるとされ、山之神には子孫繁栄を願う男体と女体の御神体を祀ることがあります。
御神体は男女を模した枝を祀ることが多いように思いますが、この山之神はコケシのような木像に烏帽子をかぶった神職のような凛々しい顔が描かれています。
木像は木の枝のようなオッタイ(男)とメッタイ(女)の股木とは違い、「のし(熨斗)」が付けられていて御祝のような形式になっている。
「岩戸山十三仏」は、飛鳥時代に聖徳太子が瓦屋寺を建立した際、同じ山並みの岩戸山に金色の光を発する岩を見つけられて、自らの爪で十三体の仏を刻まれたと伝わります。
参道には年代を問わず百六十体の石仏が安置されていることから、不気味に感じてしまうくらい寂寥とした道が続きます。
賽の河原が近づいてきたのかと感じてしまうような場所には「岩戸不動明王・三界神霊・火神・金神・外廻不動尊」などの石碑が立つ岩が祀られている。
紅白の布は岩戸山の各所に吊るされており、中央の岩の下には大量の塩が盛られていることから、聖地としての信仰の篤さが伺われる。
参道の山側には「八滝大龍王」の石碑が立つ岩があり、龍王を祀っているようである。
山で水場には出会わなかったが、山麓には田園が広がっていることから、水の神への信仰も強いものだったのではないかと思われます。
岩戸山十三仏への石段は約800段あるといいますが、不揃いな石段のため登りにくく感じます。
駐車場には2~3台の車が停まっていましたが、石段で出会ったのは一家族のみ。
岩戸山から小脇山、箕作山、赤神山(太郎坊山)へ縦走されている方がおられるのかと思います。
弘法大師の石像を越えていくと「大黒天」の岩があり、パックリと岩の割れた所に引っ掛けるように紅白の布が巻かれています。
紅白の布は何ヶ所かの巨石と樹木に巻かれているのが気になりますが、ハレの祭祀の遺跡という捉え方なのかもしれません。
登りにくい石段はこの石垣が見えてくると終わりになります。
正面い見えてくるのが磐座信仰の対象となる「岩戸山十三仏」になります。
同じ山系の阿賀神社の夫婦岩に優るとも劣らない巨石は、信仰の対象となるに相応しい迫力があります。
山頂に近いこの場所には、この巨石だけではなく巨石の集合体のようになっており、石仏や注連縄があちこちに祀られています。
大岩を右に回り込むと「岩戸神明」の扁額が掛けられた鳥居があり、やや窟状になった場所には大量の盛塩があります。
「神明」は天照大神の称ともされますので、窟の中に神隠れした太陽神(農耕神)の意味合いがあるのでしょうか。
石段を登り切ったばしょには2つの巨石が扇状に開きます。
扇の要の部分には「霊場 岩窟」への入口があり、巨巌 神明岩の中には岩窟八畳有余の空間があって、聖徳太子が窟内で御修行遊されたとの伝承が伝わります。
さてそれでは登ってきた石段の反対側にある道を進んで岩戸山の山頂を目指します。
霊山には必ずといってあるような岩門から山頂へと進みます。
山頂へはすぐに到着することが出来、山頂標識を確認。
岩戸山の標高は325m。連なる山系のピークは小脇山373.4m・箕作山372m・赤神山360mと低山が連なっている。
山頂部の岩には↑のマークが彫られているが、これは江戸時代中期から明治中期まで旗振山として利用されていた名残りなのだといいます。
大阪の堂島に集められた米の相場を早く知るため、山と山で旗振り通信で知らせたといいます。
一説によると、大阪堂島から湖東の山を使って相場を知らせるのに彦根(荒神山)まで10分ほどで伝達したとされます。
このネットワークにはインターネットを駆使する現代の投資家や相場師も口あんぐりでしょう。
この後、岩戸山から小脇山へ向けて歩き出しましたが、笹の群生の間の細い道を通らないと縦走ができないため、モチベーションを無くしてしまって引き返しました。
随分と克服はしてきたものの、草木の多い道はまだ苦手です。
岩戸山からの風景は、水を張って田植えが進んでいる田圃と、麦が実ってきて黄色くなっている田圃やまだこれから植え付けがされる田圃が入り混じっています。
平野に単立しているのは繖山でしょうか。東近江の低山は何となく登れてしまう山ですが楽しめる山が多い。
琵琶湖はガスって霞んでいますが、湖西の山々まで確認出来ます。
近江では田圃で麦を育ててるのをよく見かけますが、この麦って収穫された後どうなっているのか興味があります。
山を下って田園地帯に入ると「野神さん」がお祀りされています。
湖東地方では「山之神」「野神」の信仰や「勧請縄」の民俗信仰が色濃く残り、甲賀地方まで行くと滋賀県の湖北地方に見られる「オコナイ」があるといいます。
形式化・簡略化されつつも興味深い民俗行事は数多く残っているようです。
特に「瓦屋禅寺」や「岩戸山十三仏」は聖徳太子ゆかりの伝承が残り、同じ地域にある西国三十三所札所の「観音正寺」や「長命寺」とともに聖徳太子信仰の盛んな山となっています。
また、湖東地方の山は「湖東流紋岩類」という地質で出来ているといい、その影響によるものか巨岩が多く見られます。
この山系でも太郎坊宮が祀られる赤神山の巨岩や岩戸山の巨岩など磐座信仰が色濃く残り、甲賀や大津の巨岩信仰とは少し違った形での信仰の姿が見られるように思います。
大きな竹林の間を進むと「新四國八十八箇所霊場」の石碑があり、岩戸山の登山道(石段)が始まります。
岩戸山には全部で百六十躰の石仏が安置されているといい、山頂近くの巨石まで石仏が並ぶ道を進むことになります。
登山口には竹林が広がっており、その一角に「山之神」が祀られているのを見つけました。
同じ地域の近江八幡市安土町内野では年頭行事として村の外れに「勧請縄」を吊るす習慣が残り、その形態は道切り本来の形とされています。
岩戸山の山麓に山之神、田園地帯には野神が祀られ、山頂には磐座を祀りと古い民俗信仰が残されている地なのが実感出来ます。
「山之神」は石の正面に御幣が置かれ、横には祠の中に男女を模した木像が祀られています。
山之神は春から秋にかけて山から平地に下り、野に豊穣をもたらす野神となるとされ、山之神には子孫繁栄を願う男体と女体の御神体を祀ることがあります。
御神体は男女を模した枝を祀ることが多いように思いますが、この山之神はコケシのような木像に烏帽子をかぶった神職のような凛々しい顔が描かれています。
木像は木の枝のようなオッタイ(男)とメッタイ(女)の股木とは違い、「のし(熨斗)」が付けられていて御祝のような形式になっている。
「岩戸山十三仏」は、飛鳥時代に聖徳太子が瓦屋寺を建立した際、同じ山並みの岩戸山に金色の光を発する岩を見つけられて、自らの爪で十三体の仏を刻まれたと伝わります。
参道には年代を問わず百六十体の石仏が安置されていることから、不気味に感じてしまうくらい寂寥とした道が続きます。
賽の河原が近づいてきたのかと感じてしまうような場所には「岩戸不動明王・三界神霊・火神・金神・外廻不動尊」などの石碑が立つ岩が祀られている。
紅白の布は岩戸山の各所に吊るされており、中央の岩の下には大量の塩が盛られていることから、聖地としての信仰の篤さが伺われる。
参道の山側には「八滝大龍王」の石碑が立つ岩があり、龍王を祀っているようである。
山で水場には出会わなかったが、山麓には田園が広がっていることから、水の神への信仰も強いものだったのではないかと思われます。
岩戸山十三仏への石段は約800段あるといいますが、不揃いな石段のため登りにくく感じます。
駐車場には2~3台の車が停まっていましたが、石段で出会ったのは一家族のみ。
岩戸山から小脇山、箕作山、赤神山(太郎坊山)へ縦走されている方がおられるのかと思います。
弘法大師の石像を越えていくと「大黒天」の岩があり、パックリと岩の割れた所に引っ掛けるように紅白の布が巻かれています。
紅白の布は何ヶ所かの巨石と樹木に巻かれているのが気になりますが、ハレの祭祀の遺跡という捉え方なのかもしれません。
登りにくい石段はこの石垣が見えてくると終わりになります。
正面い見えてくるのが磐座信仰の対象となる「岩戸山十三仏」になります。
同じ山系の阿賀神社の夫婦岩に優るとも劣らない巨石は、信仰の対象となるに相応しい迫力があります。
山頂に近いこの場所には、この巨石だけではなく巨石の集合体のようになっており、石仏や注連縄があちこちに祀られています。
大岩を右に回り込むと「岩戸神明」の扁額が掛けられた鳥居があり、やや窟状になった場所には大量の盛塩があります。
「神明」は天照大神の称ともされますので、窟の中に神隠れした太陽神(農耕神)の意味合いがあるのでしょうか。
石段を登り切ったばしょには2つの巨石が扇状に開きます。
扇の要の部分には「霊場 岩窟」への入口があり、巨巌 神明岩の中には岩窟八畳有余の空間があって、聖徳太子が窟内で御修行遊されたとの伝承が伝わります。
さてそれでは登ってきた石段の反対側にある道を進んで岩戸山の山頂を目指します。
霊山には必ずといってあるような岩門から山頂へと進みます。
山頂へはすぐに到着することが出来、山頂標識を確認。
岩戸山の標高は325m。連なる山系のピークは小脇山373.4m・箕作山372m・赤神山360mと低山が連なっている。
山頂部の岩には↑のマークが彫られているが、これは江戸時代中期から明治中期まで旗振山として利用されていた名残りなのだといいます。
大阪の堂島に集められた米の相場を早く知るため、山と山で旗振り通信で知らせたといいます。
一説によると、大阪堂島から湖東の山を使って相場を知らせるのに彦根(荒神山)まで10分ほどで伝達したとされます。
このネットワークにはインターネットを駆使する現代の投資家や相場師も口あんぐりでしょう。
この後、岩戸山から小脇山へ向けて歩き出しましたが、笹の群生の間の細い道を通らないと縦走ができないため、モチベーションを無くしてしまって引き返しました。
随分と克服はしてきたものの、草木の多い道はまだ苦手です。
岩戸山からの風景は、水を張って田植えが進んでいる田圃と、麦が実ってきて黄色くなっている田圃やまだこれから植え付けがされる田圃が入り混じっています。
平野に単立しているのは繖山でしょうか。東近江の低山は何となく登れてしまう山ですが楽しめる山が多い。
琵琶湖はガスって霞んでいますが、湖西の山々まで確認出来ます。
近江では田圃で麦を育ててるのをよく見かけますが、この麦って収穫された後どうなっているのか興味があります。
山を下って田園地帯に入ると「野神さん」がお祀りされています。
湖東地方では「山之神」「野神」の信仰や「勧請縄」の民俗信仰が色濃く残り、甲賀地方まで行くと滋賀県の湖北地方に見られる「オコナイ」があるといいます。
形式化・簡略化されつつも興味深い民俗行事は数多く残っているようです。