上平良二重原地区から野貝原山まで間の山字は城ケ谷であり、中世折敷畑山合戦があった時代に関係する地名のようである。この近くには小字城趾ケ谷がみられ242m峰山頂部に平地がみられることからここに陣地が設けられていたものとみられる。
城趾ケ谷の周辺には死人ケ原、小角ケ谷(コズミガ谷)の小字がみられる。宮内側にもコズミガ谷があり江戸期の地誌に「防州勢打負谷底へ切崩シ候処今ニ、コスミカ谷ト申ス」とあり、戦死者が谷底に小積みとなっていたのでこのような地名になったものとみられる。
goo blog お知らせ
プロフィール
最新コメント
- hera/河野原大歳神社の注連縄奉納
- hera/銘酒「正宗」の謎
- nk0840/銘酒「正宗」の謎
- nk0840/河野原大歳神社の注連縄奉納
- hera/デコ芝居-はったんがえし
- nk/廿日市市民俗芸能伝承館 (眺楽座)
- nk/デコ芝居-はったんがえし
- 縄文杉太郎/旧三興中学校跡
- 縄文杉太郎/旧三興中学校跡
- hera/広島はつかいち大橋の今