廿日市市域内の大竹市飛地である後原集落から、広島西カントリー倶楽部方面への道路脇山中に三王大権現碑があり、その脇の道しるべ碑には「右廿日市」「左巖国」とある。
現在は山の中であるが古い時代にはここから岩国方面、広原、友田を経て廿日市に通じていた交通路で、疫病や病虫害が集落内に入ってこないように祈祷関札が立てられている。
廿日市市域の中にある大竹市飛地の後原地区にある民家土蔵の蔵飾りで立派な「唐獅子と牡丹」であるが消滅寸前である。
土蔵の屋根半分以上が朽ち落ちており二面の壁面がかろうじて残っているような状態なので崩壊するのは時間の問題である。
美和町歴史民俗資料館に展示してある阿賀速田神社の神輿で、江戸期の地誌に神輿三基とあるのでその内の一基であろう。
阿賀速田神社は古い時代に上平良地区の速田神社(現在速谷神社)が分祀され祀られたものとみられ、廿日市と山代地方との関係が窺われるのである。 ※阿賀速田神社:09.11.14紹介
岩国市美和町の美和町歴史民俗資料館にある鉄燈籠で、山代衆(旧美和町、錦町、本郷村、美川町一帯の土豪をいう)の中村氏が先祖の菩提を弔うために天文15年(1546)に建立したものである。
この鉄燈籠は廿日市の鋳物師である久枝綱家が鋳造したもので、中世ころから廿日市と山代地方との関係が窺われるのである。
廿日市青果市場は朝活気があるのであろうが昼間は閑散としている。現在では青果物を扱う商店が少なくなったので昔みたいな活気は見られないのであろう。
かつて市場の前は一面荒地のような原っぱでここでサーカスが興行されたのを思い出した。
可愛川河口部分の貯木場跡の埋め立て工事の進捗状況を何度か紹介したが、現在埋め立ては完了しており付随する工事が行なわれているようである。
榎の浦沖の遠浅で小学生の頃海水浴授業や貝堀りをしていた親水海岸であったが、最近は埋め立てられて市域では砂浜海岸が少なくなった。
旧国道の常念寺前から南に向う道路部分はかつて潮音寺川であったが現在は暗渠になっており、この川に架かっていた石橋(下画像:平成5年)は現在道路脇の公園にモニュメントとして設置されている。
かつての石橋は大正2年(1913)に架橋されたものである。公園の地には家屋が数軒あって須賀4番の住居表示であったが現在4番内には家屋は無くなったようである。
先日佐方地区を通っていたらピュアークックプラザ店が取壊されていた。
ここの場所には当初みどり廿日市店があったがその後閉店し、その跡にピュアークックプラザ店(旧スーパーふじおか)が平成元年(1989)に開店して平成14年(2002)に全面改装がされていたようである。
梅雨の真っ只中の合間に二重原地区にある梅雨太郎を訪れたが、梅雨太郎さんを見ることはできなかった。
江戸期の地誌に「石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。近くには梅雨太郎水という清水が蛇頭の口から湧出している。
遭難碑を過ぎると程なく山頂に立てられているT型の山名標木がかすかに見えるが、疲れた歩みではなかなか近づいてこないのである。
登山口から比高約800mを登り標高1318.9mの三角点に到達すると、四方八方でなく十方を見渡すことが出来て疲れも吹っ飛んでしまうのである。
森林域を抜けると低木や熊笹域となって緩やかな登山道となり、ほどなく進むと岩の上に遭難碑が建立されているのがみられる。
昭和59年(1984)12月22日に遭難した永吉師通氏の遭難石碑で、もう少し進んだ奥まったところには石を積み上げたと思われる所があり、そこに至る熊笹が刈り取ってあるので古い時代の遭難碑なのであろうか。
十方山頂までの半分くらいであろうか登山道脇に5合目の表示があり、画像中央が登山道で左側に向うと標高1030mの小ピークに至る。
三つ倉と言われる小ピーク山頂には昭和10年(1935)2月3日に雪のために遭難した伊藤四郎氏の遭難石碑が建立されている。
市域の高山である十方山(標高1318.9m)に久しぶりに挑戦、登山口からしばらく登っていくと石積みの木馬道がある。かつて瀬戸谷の奥地から木馬で木材を搬出していた跡であり、この道を進んで行くと瀬戸滝が見える上部に至る。
十方山道は木馬道から右手に登って行きしばらく登っていくと道脇に炭窯の跡がみられる。窯の一部にはレンガも見られることからあまり古い時代のものではないようである。