『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

上川上大歳神社

2013年07月14日 | 「佐伯地区」ぶらり


上川上地区にある大歳神社で江戸期の地誌には上川上に河内大明神と川上中組に大歳大明神がみられるが現在地とは違った位置にみられる。両神社は嘉永元年(1848)の社殿造建棟札によると合祀されていたようである。
明治後期には殆んどの村社は御幸山神社に合祀されているので、その後現在地に大歳神社として復活されたものとみられるのである。

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上川上地蔵堂

2013年07月13日 | 「佐伯地区」ぶらり


上川上地区の民家裏手にある地蔵堂で6体の地蔵像に3体の仏像が安置され祀られている。
当地蔵堂のいわれは定かではないが「奉謹造立本尊阿弥陀如来六地蔵尊」と記された文明16年(1484)の紀年台座が残されているようであり、古い時代から祀られてきたようである。当地には正安寺という寺があったようであるが、江戸期の地誌編纂頃にはすでに廃寺で詳しいことは不明とされている。
紀年台座には「誠翁○公禅師敬白願主」とあり、住持の名前がみられることからこの地蔵堂は正安寺が廃寺になった遺物が祀られたものではないかと思われるのである。

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御室神社の三十六歌仙額

2013年07月12日 | 「佐伯地区」ぶらり


吉末地区にある御室神社の拝殿に三十六歌仙額が8面掲額されており、在原業平、猿丸太夫、中納言兼輔、源順、藤原元真、僧正遍昭、清原元輔、中納言朝忠らの歌人の名がかすかに確認出来た。
以前は吹さらしの拝殿に掲額されていたものとみられ劣化が激しく殆んどが失われており、比較的状態のよいもの8面が残されているようである。

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御室神社

2013年07月11日 | 「佐伯地区」ぶらり


玖島吉末地区にある御室神社で曰くありそうな神社名であるが詳しいことは不明である。
江戸期、明治期の地誌には一丁田に御室明神がみられ、江戸期地誌絵図のこの場所には着大明神とあるが、明治後期に殆んどの村社は御幸山神社に合祀されているので、その後に着大明神、御室明神が合祀復活されたものとみられる。

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蔵飾り-家紋

2013年07月10日 | 「佐伯地区」ぶらり


永原地区にある民家土蔵の蔵飾りで家紋とみられる菊水が描かれている。半菊の下に流水を描いた菊水紋で上部には枝葉のついた菊花が表されている。
青い顔料を入れた漆喰塗りの上に漆喰で菊水紋と菊花が描かれたもので菊花は塗り厚が厚いものとみられ少し立体的に見えるのである。

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箱棟の民家

2013年07月09日 | 「廿日市地区」ぶらり


原地区にある民家で草葺屋根の上に鉄板葺きとされており、棟部分も鉄板葺きの箱棟が設けられている。
昭和58年(1983)頃には下画像のように草葺屋根で瓦葺きの箱棟が設けられていたが、草葺き屋根を改修されたときに箱棟部分も鉄板葺きに改修されたもののようである。

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入道雲の夕焼け

2013年07月08日 | その他


今朝の天候は梅雨明けを思わすようであるが、昨日は何度もなんどもザァーと夕立があり梅雨末期の天候のようであった。
ところが夕方には能美島上空に入道雲が出ており夕日を受けて赤く染まった夕焼けとなって本日の天候を予告していたようである。

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箱棟の民家

2013年07月07日 | 「廿日市地区」ぶらり


上平良地区にある民家でかつては草葺き屋根で棟部分には箱棟が設けられていたが、現在草葺き部分は鉄板葺きの屋根に改修されている。
当市域でみられる箱棟は切妻屋根であるが、先の各駅停車の旅で山口県内では入母屋造りの箱棟がみられた。
草葺き屋根の棟部分は屋根仕舞いが難しいところであり傷みやすい箇所でその部分を保護するために装飾化された棟飾りが設けられていたが、より安全な瓦葺きやトタン葺きの箱棟にされた民家もある。

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下関駅から各駅停車の旅

2013年07月06日 | その他


下関市内の散策を終えてJR下関駅ホームに上がると古レールを使用したレトロなホーム上屋があり、鳥による被害を避けるために屋根裏一面にネットが張ってあった。上屋の部材には厚い塗装が施されて銘文がはっきり読み取れないけれど、米国カーネギー社製造の古レールなどが使用されているようである。
下関駅から広駅行きの普通列車があったので、宮内串戸まで3時間35分の各駅停車の旅をした。

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秋根の御大方様灰塚

2013年07月05日 | 廿日市関連


毛利元清の母親である秋根の御大方は慶長6年(1601)に没しており、30年位前には普賢寺の道路向いに灰塚が残されていた。(上画像)
現在は納骨堂や開山墓碑、秋根の御大方供養墓碑などが整備建立されて灰塚は残存していない。秋根の御大方の墓碑は功山寺の毛利家の墓地に建立されている。

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普賢寺(元普済寺)

2013年07月04日 | 廿日市関連


新下関駅近くの秋根本町にある普賢寺でこの寺は江戸期には普済寺と称されていたが明治期以降に改称されたようである。(下画像は30年位前の普賢寺)
毛利元就の継室である乃美氏は元清、元政、秀包を生んでおり、元就没後は元清の桜尾城に居たが、毛利氏の防長移封に伴って長門国秋根村に居住し秋根の御大方様と呼ばれていた。乃美氏没後にその邸跡に功山寺5世(洞雲寺17世)基外嶺雄の弟子である星岸伝寿が普済寺を開き位牌を安置し供養したようである。

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笑山寺開山・中興二世墓碑

2013年07月03日 | 廿日市関連


昨日にも紹介した笑山寺(功山寺)は毛利秀元の請いにより功山寺3世(洞雲寺12世)三庭龍達が開いて後に弟子功山寺4世(洞雲寺13世)大雲守的に譲って隠退していた。
秀元の請いにより三庭龍達は廃寺であった潮音院に妙寿大姉の位牌を安置して妙寿寺と改めて住持となっており、三庭龍達は師である洞雲寺11世天翁玄播を開山とし自らは遠慮し中興2世となった。後に元清の位牌を安置して笑山寺と改称している。

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笑山寺

2013年07月02日 | 廿日市関連


笑山寺は洞雲寺の末寺で長府に移封された毛利秀元は廃寺であった潮音院を母親妙寿大姉の位牌を安置して妙寿寺と改めた。
以前紹介した功山寺は父親元清の位牌を安置して笑山寺と称していたが、秀元没後に法号巧山玄誉居士により巧山寺と改称しており、元清の位牌を妙寿寺に移し安置して笑山寺に改称している。

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櫛崎城跡

2013年07月01日 | 廿日市関連


昨日小倉に帰る娘達の車に下関市まで便乗し長府など廿日市との関わりのある所を散策したので紹介します。
桜尾城にいた毛利秀元は関ヶ原の合戦後毛利氏防長移封に伴って長門豊浦郡などを分知され長門櫛崎城に入り毛利支藩長府藩の祖となった。
城跡は民有地、居館跡は県立豊浦高校の用地などになっており画像付近の石垣が唯一当時を偲べる遺構である。

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