殺人列車
戦争中には空襲の被害を少なくするため都市から田舎に分散、避難させる疎開が行われた。とくに、子供達は学童疎開といい、田舎の親戚宅や、学校毎の集団疎開(学校疎開)などで親から離れて暮らした。終戦時2歳の私には疎開の経験はない。
戦後も、食料のない都会から田舎に避難する人が多くいた。我が家も東京から父の故郷九州へ行ったという。列車は身動きできないのでトイレにも行けず、窓から済ます。棚に置いた荷物を持って行く人が見え、大声を出すが、身動きできないのでどうしようもなく持ち去られてしまった。あのときは悔しかったと母からよく聞かされた。
窓からはみ出し、屋根にも人が乗っているアジアなどのTV映像を遠い世界の事柄として見ることがあるが、半世紀前の日本でも見られた光景だったのである。
窓から電車に入り込めないようにと、小さな窓で、しかも横枠で3分割したモハ63形が1944年に登場した。しかし、1951年4月24日京浜東北線桜木町駅前で切断し垂れた架線に電車が接触し車両2台が火災を起こした。車体が燃えやすい上に窓から脱出できない構造だったことから、乗客106名が焼死した。桜木町事故である。当時小学低学年だった私も、新聞第一面の燃えつくした電車の写真を覚えている。
この事故を契機に、窓が開き、連結車両へ移動できるなど改造が行われた。緊急時にボタンを押すと、ドアを開けることができる緊急ボタンも、この後、設置された。今でも、「非常の場合 コックハンドルを手前に引けば、すべてのドアは手であけられます In an emergency Pull the cockhadle toward you, then all doors are ready for opening by hand. 」というあの赤枠で囲まれた掲示を見ると、55年前の新聞記事を思い出す。
間借り生活
戦後は、かなりな人が間借り生活をしていた。たとえ収入があっても家がなかった。一定以上の大きさの家は役所の判断により同居人を置かねばならないという昭和21年6月に施行された改正住宅緊急措置令のためもあったのだろう。また、敗戦の焼け野原での互いに助け合う風潮もあったのかもしれない。
私達は5部屋ある大きな親戚の家を一軒借りていたが、なぜか3畳一間に縁もゆかりも無い年老いた夫婦が住んでいた。また、一時私達以外の親戚が同居していたこともある。私が自分の部屋を持ったのは高校のときである。廊下の隅をカーテンで仕切って机を置いた1畳たらずの部屋である。今では何かなつかしく、あの秘密基地のような部屋を思い出す。
以上
戦争中には空襲の被害を少なくするため都市から田舎に分散、避難させる疎開が行われた。とくに、子供達は学童疎開といい、田舎の親戚宅や、学校毎の集団疎開(学校疎開)などで親から離れて暮らした。終戦時2歳の私には疎開の経験はない。
戦後も、食料のない都会から田舎に避難する人が多くいた。我が家も東京から父の故郷九州へ行ったという。列車は身動きできないのでトイレにも行けず、窓から済ます。棚に置いた荷物を持って行く人が見え、大声を出すが、身動きできないのでどうしようもなく持ち去られてしまった。あのときは悔しかったと母からよく聞かされた。
窓からはみ出し、屋根にも人が乗っているアジアなどのTV映像を遠い世界の事柄として見ることがあるが、半世紀前の日本でも見られた光景だったのである。
窓から電車に入り込めないようにと、小さな窓で、しかも横枠で3分割したモハ63形が1944年に登場した。しかし、1951年4月24日京浜東北線桜木町駅前で切断し垂れた架線に電車が接触し車両2台が火災を起こした。車体が燃えやすい上に窓から脱出できない構造だったことから、乗客106名が焼死した。桜木町事故である。当時小学低学年だった私も、新聞第一面の燃えつくした電車の写真を覚えている。
この事故を契機に、窓が開き、連結車両へ移動できるなど改造が行われた。緊急時にボタンを押すと、ドアを開けることができる緊急ボタンも、この後、設置された。今でも、「非常の場合 コックハンドルを手前に引けば、すべてのドアは手であけられます In an emergency Pull the cockhadle toward you, then all doors are ready for opening by hand. 」というあの赤枠で囲まれた掲示を見ると、55年前の新聞記事を思い出す。
間借り生活
戦後は、かなりな人が間借り生活をしていた。たとえ収入があっても家がなかった。一定以上の大きさの家は役所の判断により同居人を置かねばならないという昭和21年6月に施行された改正住宅緊急措置令のためもあったのだろう。また、敗戦の焼け野原での互いに助け合う風潮もあったのかもしれない。
私達は5部屋ある大きな親戚の家を一軒借りていたが、なぜか3畳一間に縁もゆかりも無い年老いた夫婦が住んでいた。また、一時私達以外の親戚が同居していたこともある。私が自分の部屋を持ったのは高校のときである。廊下の隅をカーテンで仕切って机を置いた1畳たらずの部屋である。今では何かなつかしく、あの秘密基地のような部屋を思い出す。
以上