堀江敏幸著「正弦曲線」中央公論新社2009年9月発行を読んだ。
「婦人公論」2007年1月から2009年1月に掲載された文章を単行本化。
どこか普通のエッセイと違う。人や社会とのかかわりについて触れることが少ない。常に観察者の立場で、理工系とも思える冷静に些細な分析を行う。とりあげるテーマが変わっていて、一見ちまちましているが、そこからの考察が豊富な知識を駆使して、けっこう鋭い。一風変わったエッセイだ。
本のタイトルの「正弦曲線」について著者は、こう述べる。
三角関数を習ったとき、そのなんたるかを理解するより先に、サイン、コサイン、タンジェント、という魔法のような言葉の響きに私はまず魅了された。
私も魔法の呪文のようだと思った記憶がある。しかし、正弦曲線の意味についての以下の考察は、分かったようで分からない。
なにをやっても一定の振幅で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。
階段には不変の規則があるという。階段は人間の歩幅に合わせるため、段(蹴上げ)の高さを2倍し、そこの平坦部の奥行き(踏面)を足した数値が、おおよそ60センチから64センチの間に収まるように定められているらしい。
La vache qui rit(笑う雌牛)というフランス産輸入チーズには赤い顔の雌牛が描かれている。これを描いたラビエという画家による、牛に笑うという芸を仕込んだ話(引用)が面白い。
私はなじみの牛乳屋から、雌牛を一頭とその息子を借り、すぐさま子牛の調教に取りかかった。若いだけに、こちらのほうが感受性も鋭いと思ったのだ、ところが大まちがい! 先に笑い始めたのは母親のほうだったのである。私が息子と遊ぶのを見て、彼女は嬉しかったのだ。(著者訳)
その他、パジャマのポケットが何のためにあるかという考察、昔よく使った鉤のついた包帯止めの探索などがある。ひと目惚れや、最初はそうでもなかったのに、といった出会いについて分析があったので、どれどれと思うと、最後は結局、本の出合いとの類似性で終わっていた。
私は聞いたこともない著名とは思えない外国の著者、題名の本が登場し、著者の読書家ぶりに驚かされる。そして、あらゆることに豊富な知識を誇り、フランス人となんということなしに複雑そうな会話をする。一方、けつまづいたり、忘れたり、いろいろどじった話も多く、穏やかでのんびりした語り口もあって、話をすんなり受け入れることができる。
堀江敏幸は、1964年岐阜県生まれ。作家で、フランス文学者。早稲田大学教授。1999年「おぱらばん」で三島由紀夫賞、2001年「熊の敷石」で芥川賞、2003年「スタンス・ドット」で川端康成賞、2004年「雪沼とその周辺」で谷崎潤一郎賞、木山捷兵賞、2006年「河岸忘日抄」で読売文学賞を受賞。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)
理知的で、細かい分析が多いので、理屈ぽい話が嫌いな人にはお勧めできないが、情緒的なエッセイばかり読んでいる人も、たまにはこんな変わったエッセイを読むのも良いのではないだろうか。文章自体は平易で読む易い。