亜細亜大学での連続討論会「街づくり未来塾」の第三回として、「多機能トイレから共生のあり方を考える」という講演を聴き、昨日その概要を報告した。
今回は、私が講演を聴いて思ったことを述べる。
まず第一は、車椅子利用者の方にもっと街に出て欲しいということだ。もちろん、車椅子で移動しやすい街にすることが前提で、必要なのだが、車椅子の人がどこに問題があるか声を上げて欲しい。同時に、もう少し街で車椅子を見かけて、一般の人にも問題を実感させ、自治体にも量的問題としても、意識を改めさせる必要がある。行政は、家でじっと耐えている人の声を汲みとることはしないようだから。
多機能トイレが特殊トイレのままでは、共生にはならない。どの街角にも移動する車椅子がある、それが当たり前の光景になるためには、施設の充実と、利用頻度の増加が競いあって延びていって欲しい。
統計があるわけではなく、限られた個人的体験だが、オーストラリアのパースという街に滞在中、電動車椅子で街を自由に走り回る人々をよく見かけた。生き生きと、当然といった様子で走り回る車椅子を見て1ヶ月もたつと、それが自然な光景に思えてきて、日本に戻ると、車椅子を見かけないのが異常な感じさえした。皆さん家でじっと我慢しているのだろう。
公衆トイレというもの自体、パースの街中にはほとんどないが、車椅子用トイレ(accessible toilets)は公共の建物や、準公共の建物、デパートなどに少ないがある。市のサイトに今回の調査結果のようにこれらの場所、内部寸法、写真などが Accessible Toiletsとして公開されている。ベビーシート(baby change table)が数カ所にあるくらいで、他は車椅子が使えるだけのトイレだ。
ちなみに、私の滞在したアパートメントは60室ほどの小さなビルだが、1階に車椅子用のトイレがあり、駐車場にも車椅子専用のスペースがあった。
市には、歩道のヘリにスロープをつけるなどそれらを助ける規則があり、駅や歩道橋などの階段には、エレベータか、広大な土地柄、長大なスロープがどこにでも併設されていた。電車の各車両や、バス(CATという市運営の無料バス)にも車椅子用のスペースが必ずある。CATバスは、車椅子の人が乗るときは車体ごと傾いて、そのまま乗り込める。
社会が車椅子前提の社会になっていて、街中の基本的インフラが車椅子利用を前提に作られている。あそこが車椅子が使えると言うのではなく、すべてが利用可能で、利用できないのが例外なのだ。極端に言えば、「利用できない所マップ」が必要な街なのだ(ちょっと言い過ぎ)。
実情や、統計などに無知だが、逆に、街を歩く目の不自由な人は日本の方が多いような感じがした。江戸時代からあんまさんなどの形で一種の共生を図ってきた歴史の積み重ねもあって、一般の人の理解も進んでいたのだろう。一般の人にとっては多少歩きにくい点字ブロックも日本にはかなり普及している。まだまだ、欧米に比べて数が少ないという盲導犬も、最近ではときどき街で見かけることもある。犬嫌いの私は(犬の方が私を嫌いという意味)、当初、一瞬ギクリとしたが、最近では良く訓練されていることがわかり、近くに来ても安心している。レストランなどでも盲導犬同伴を断られなくなったとも聞く。
先日、つまづいて、本を抱えていた方の手をつけず、胸を打ってまだ痛い。もっと足が上がらなくなれば杖が必要になり、緑内障が進めば、白い杖に代わり、やがては車椅子を利用することになるだろう。障碍者の社会との共生は私自身の問題でもある。