プロ野球・巨人のV9に貢献した、高橋一三(たかはし・かずみ)氏が死去した。享年69歳。
高橋一三は1965年巨人入り。入団から数年は勝ったり負けたりの成績だったが、ブレイクしたのは1969年。22勝5敗の好成績を挙げ、巨人の5連覇に貢献するとともに、投手の勲章である沢村賞を受賞した。
高橋は極端なイカリ肩で、投球の際も、大きく背中を反らせてビシュッ、と投げる独特のフォームだった。当時スピードガンはなかったが、150キロは出ていたとされる。
あまりコントロールはよくなく、ボールが多かった。そこで名前に引っかけて、「ワンスリー(ワンストライク・スリーボール)」の愛称で呼ばれた。
ともあれこの活躍により、高橋は「左のエース」と呼ばれることになる。当時高橋の背番号は「21」で、右のエースナンバーが「18」なら、左のエースナンバーは「21」が代名詞となった。
高橋はその後も3年間2ケタ勝利を挙げたが、再度爆発したのは1973年。この年のペナントレースはもつれにもつれ、最終戦、阪神タイガースとの決戦で、勝った方が優勝という、小便をチビリそうな状況になった。ここで高橋が先発し、阪神打線を見事完封、優勝投手となった。巨人のV9を語る時、この場面は欠かせない。よって、高橋一三を目にした人も多いはずだ。
この年は23勝13敗の好成績。チームはペナントレース66勝60敗4分けで、高橋一三がいなかったら、巨人の優勝はなかったといっていい。
しかしこの疲れが出たか、高橋は翌年2勝で終わり、巨人のV10の夢も絶たれた。さらにその翌年は6勝で終わり、チームも初の最下位となる。
高橋に転機となったのはその翌年で、日本ハムファイターズ・張本勲と、巨人・富田勝と高橋の1対2のトレードが実現し、高橋は11年の巨人生活に別れを告げる。
日本ハムでももちろん先発の柱として活躍したが、1978年に腰を痛め、引退寸前になった。ここで高橋は技巧派に転身し、華麗な復活を遂げる。
そして1981年には14勝を挙げ、うれしいリーグ優勝。巨人と日本シリーズを争うことになる。
高橋は第1戦と第5戦に先発した。私はこの第5戦に、後楽園球場に弟と観戦に行っている。実はこの試合、雨で1日順延となった。それで、この前日に見に行く予定だった父の知人から、このチケットが回ってきたのだ。
席はバックネット裏の2階席で、まさに特等席だった。下を見ると、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんが観戦に来ていて、弟が「しむらー!!」と叫ぶと、志村けんが「ああ?」という顔でこちらを見上げてくれたものだった。
私はスコアブックを持ち、わくわくしながら観戦した。巨人から放出された投手が、日本シリーズという大舞台で、古巣相手に投げる――。それは感動的だった。
ちなみに試合は、左殺し・平田薫のホームランと、西本聖が13安打を打たれながらも完封するという珍記録で、巨人が日本一に王手を掛けたのだった。
高橋は1983年に引退。奪三振は1997で、最終登板に2000奪三振をかけたが、わずかに届かなかった。後年高橋は、これをひどく残念がっていたという。
引退後は、日本ハムの投手コーチとなる。1991年、近藤貞雄が監督を辞任した時、高橋も監督候補になった。しかし実現せず、その理由は、「高橋じゃ地味だから」だったという話もある。
その後高橋は巨人のコーチ、二軍監督も歴任した。享年69は今の時代早逝だが、現役生活は19年、最後は古巣巨人に帰り、幸せな野球人生だったと思う。
プロ野球初の「左のエース」に、合掌。
高橋一三は1965年巨人入り。入団から数年は勝ったり負けたりの成績だったが、ブレイクしたのは1969年。22勝5敗の好成績を挙げ、巨人の5連覇に貢献するとともに、投手の勲章である沢村賞を受賞した。
高橋は極端なイカリ肩で、投球の際も、大きく背中を反らせてビシュッ、と投げる独特のフォームだった。当時スピードガンはなかったが、150キロは出ていたとされる。
あまりコントロールはよくなく、ボールが多かった。そこで名前に引っかけて、「ワンスリー(ワンストライク・スリーボール)」の愛称で呼ばれた。
ともあれこの活躍により、高橋は「左のエース」と呼ばれることになる。当時高橋の背番号は「21」で、右のエースナンバーが「18」なら、左のエースナンバーは「21」が代名詞となった。
高橋はその後も3年間2ケタ勝利を挙げたが、再度爆発したのは1973年。この年のペナントレースはもつれにもつれ、最終戦、阪神タイガースとの決戦で、勝った方が優勝という、小便をチビリそうな状況になった。ここで高橋が先発し、阪神打線を見事完封、優勝投手となった。巨人のV9を語る時、この場面は欠かせない。よって、高橋一三を目にした人も多いはずだ。
この年は23勝13敗の好成績。チームはペナントレース66勝60敗4分けで、高橋一三がいなかったら、巨人の優勝はなかったといっていい。
しかしこの疲れが出たか、高橋は翌年2勝で終わり、巨人のV10の夢も絶たれた。さらにその翌年は6勝で終わり、チームも初の最下位となる。
高橋に転機となったのはその翌年で、日本ハムファイターズ・張本勲と、巨人・富田勝と高橋の1対2のトレードが実現し、高橋は11年の巨人生活に別れを告げる。
日本ハムでももちろん先発の柱として活躍したが、1978年に腰を痛め、引退寸前になった。ここで高橋は技巧派に転身し、華麗な復活を遂げる。
そして1981年には14勝を挙げ、うれしいリーグ優勝。巨人と日本シリーズを争うことになる。
高橋は第1戦と第5戦に先発した。私はこの第5戦に、後楽園球場に弟と観戦に行っている。実はこの試合、雨で1日順延となった。それで、この前日に見に行く予定だった父の知人から、このチケットが回ってきたのだ。
席はバックネット裏の2階席で、まさに特等席だった。下を見ると、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんが観戦に来ていて、弟が「しむらー!!」と叫ぶと、志村けんが「ああ?」という顔でこちらを見上げてくれたものだった。
私はスコアブックを持ち、わくわくしながら観戦した。巨人から放出された投手が、日本シリーズという大舞台で、古巣相手に投げる――。それは感動的だった。
ちなみに試合は、左殺し・平田薫のホームランと、西本聖が13安打を打たれながらも完封するという珍記録で、巨人が日本一に王手を掛けたのだった。
高橋は1983年に引退。奪三振は1997で、最終登板に2000奪三振をかけたが、わずかに届かなかった。後年高橋は、これをひどく残念がっていたという。
引退後は、日本ハムの投手コーチとなる。1991年、近藤貞雄が監督を辞任した時、高橋も監督候補になった。しかし実現せず、その理由は、「高橋じゃ地味だから」だったという話もある。
その後高橋は巨人のコーチ、二軍監督も歴任した。享年69は今の時代早逝だが、現役生活は19年、最後は古巣巨人に帰り、幸せな野球人生だったと思う。
プロ野球初の「左のエース」に、合掌。