きょう10月14日は何の日か。鉄道ファンなら「鉄道の日」、食通なら「焼きうどんの日」というだろう。
そして、コアな野球ファンなら、「長嶋茂雄が現役を引退した日」となる。
「長嶋茂雄」の説明は必要あるまい。国民栄誉賞も受賞した、日本のプロ野球界を代表するスーパースターである。きょうはその長嶋茂雄が1974年10月14日に引退試合を行ってから、50年になるのだ。
長嶋は佐倉一高から立教大学に進学し、六大学野球で活躍した。8ホームランの新記録(当時)をひっさげ、1957年、巨人に入団した。
デビューは1958年4月5日の開幕戦・国鉄スワローズ戦。だが、国鉄のエース・金田正一の前に4打席4三振。別の意味で、鮮烈なデビューとなった。
だがそれから長嶋は打ちまくった。1年を終え、29本塁打、92打点、打率.305。本塁打と打点の二冠王になり、打率も2位だった。今年の大谷翔平みたいなものである。惜しかったのは本塁打で、もし30本を達成していれば、打率、盗塁37とともに、「トリプルスリー」を達成していた。
だが長嶋は、実際は30本塁打を打っていた。9月26日の広島カープ戦で28号を打ったのだが、1塁ベースを踏み忘れ、幻となった。このチョンボも長嶋らしい。
長嶋の人気の秘密は、1959年6月25日、天覧試合でのサヨナラホーマーに代表されるように、ここぞという場面で、ヒットを打ってくれることたった。
そして、ファンへの徹底したショーマンシップがあった。
長嶋はヘルメットを一回り大きめにしていた。それだと空振りしたときヘルメットが飛び、観衆が湧くからである。
サードでの守備範囲も広く、ショートまで侵食するのは当たり前。ショート正面のゴロは横から飛び出し、軽く捌いた。
ピッチャー横も守備範囲で、ボテボテのゴロは「オレが捕る!」とばかり捌く。ファーストにスローイングした右手の薬指と小指がピクピク動き、その姿に観客は熱狂した。
その反対に、フライの捕球はあまり興味を示さなかった。フライは捕るだけで、見せ場がないからである。だから平凡なフライは、ショートの黒江透修に任せていた。
また、巨人が大差で勝っているときにゴロが飛んでくると、わざとトンネルをし、観客を楽しませた。
こうして長嶋は、王貞治とともに、昭和40年代の巨人常勝の立役者となった。
だがそんな長嶋にも、体力の限界がやってくる。1971年は打率.320で6度目の首位打者を獲ったが、72年は.266、73年は.269と、徐々に成績が落ちて行った。
そんな秋の日、長嶋は川上哲治監督に呼ばれた。
「長嶋、私は今年で監督を辞める。お前は今年で現役を辞め、来年は監督をやれ」
そう、川上はおもむろに切り出した。
だが長嶋は
「地位も名誉も要りません、あと1年、1年だけ現役をやらせてください」
と頼みこんだ。川上も了承し、こうして長嶋の1974年が始まった。
だが長嶋は調子がパッとしない。6月にはついに先発メンバーから外れ、ときには1番を打つことにもなった。調子が上向いてきたときも、使ってもらえないときがあった。長嶋と川上との関係が、なんとなくギクシャクしていた。
実は長嶋は、あと2~3年は現役を続けるつもりでいた。しかしもうダメである。夏頃には、今年限りでの引退を決めていた。
10月12日、ナゴヤ球場で中日ドラゴンズが優勝を決め、巨人のV10はなくなった。同日、長嶋が現役引退を表明した。
翌13日、中日とのダブルヘッダー最終戦が引退試合にあたったが、雨天中止で翌14日に順延となった。
ところがこの日は中日が名古屋市で、祝勝パレードを開くことになっていた。主力選手の高木守道は、このパレードを蹴ってでも長嶋の引退試合に臨みたかったが、球団にダメを出された。
余談だが、しぶしぶパレードに参加した高木は、ファンとの握手攻めに長時間遭い、両手が腫れてしまった。そのため、ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実力を発揮できず、チームも2勝4敗で敗れた。
もし高木が長嶋の引退試合に出場していたら、日本シリーズも違った結果になっていたかもしれない。
さて、10月14日の引退試合である。長嶋は第1試合に3番・サードで出場し、4回に15号本塁打を放った。7回には王も本塁打を放ち、通算106回目のアベックホーマーとなった。
第1試合終了後、長嶋は観衆のコールに応えてダグアウトを飛び出し、外野を一周して、その声援に応えた。
第2試合は4番・サードで出場。最終打席はショートゴロのゲッツーに倒れた。プロ初打席は三振、最終打席はゲッツー。これも長嶋らしかった。
試合終了後は長嶋の引退セレモニーがあった。
昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、きょうまで17年間、巨人ならびに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援をいただきまして、誠にありがとうございました。
皆様から頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、きょうまで私なりの野球生活を続けてまいりました。いまここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意いたしました。
振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい大きな拍手を、この背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれました。
また不調なとき、皆様の温かいご声援の数々のひとつに、きょうまで支えられてきました。我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は敗れ去りました。
ここで野球界に永遠に残る、あの名フレーズが出る。
私はきょう引退をいたしますが、
我が巨人軍は永久に不滅です。
「永久」か「永遠」かはクイズで出されるところだが、正解は「永久」である。
テレビで紹介される映像ではここまでだが、実際はこの後も続く。
今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が明日の勝利のために、今日まで皆様方からいただいたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。
こうして長嶋の現役生活は終わったのだが、改めて問う。長嶋の引退試合は10月14日だったのか?
答えはYesであり、Noである。
実はこの年の秋、ニューヨーク・メッツとの日米野球が組まれた。全18試合の長丁場で現在では考えられないが、それに長嶋も何試合か出場していた。引退が確定した棋士が、竜王戦6組の昇級者決定戦を戦うようなものである。
最後の出場となったのは11月4日、後楽園球場での一戦である。第1打席で長嶋はヒットを打ち、この時点で打率4割越え。野球ファンは、長嶋は来年も現役をやるんじゃないか、と本気で願望したのだった。
最終打席はサードゴロだったと記憶する。
以上、これが本当の、長嶋の現役最終試合であった。
11月20日、メッツとの最終戦後に、川上は監督勇退を表明する。横には長嶋が列席した。シーズンオフにつきもののスーツでなくユニホーム姿なのは、このような理由であった。
そして1975年から長嶋の、波乱万丈の監督人生が始まるのだが、それはまた、別の話。
長嶋のニックネームは「ミスター」「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」である。「ジャイアンツ」はともかく「プロ野球」とは、最高のニックネームではなかろうか。
そしてきょう10月14日が、「スポーツの日」として祝日だったのも、いかにも長嶋らしい記念日であった。
そして、コアな野球ファンなら、「長嶋茂雄が現役を引退した日」となる。
「長嶋茂雄」の説明は必要あるまい。国民栄誉賞も受賞した、日本のプロ野球界を代表するスーパースターである。きょうはその長嶋茂雄が1974年10月14日に引退試合を行ってから、50年になるのだ。
長嶋は佐倉一高から立教大学に進学し、六大学野球で活躍した。8ホームランの新記録(当時)をひっさげ、1957年、巨人に入団した。
デビューは1958年4月5日の開幕戦・国鉄スワローズ戦。だが、国鉄のエース・金田正一の前に4打席4三振。別の意味で、鮮烈なデビューとなった。
だがそれから長嶋は打ちまくった。1年を終え、29本塁打、92打点、打率.305。本塁打と打点の二冠王になり、打率も2位だった。今年の大谷翔平みたいなものである。惜しかったのは本塁打で、もし30本を達成していれば、打率、盗塁37とともに、「トリプルスリー」を達成していた。
だが長嶋は、実際は30本塁打を打っていた。9月26日の広島カープ戦で28号を打ったのだが、1塁ベースを踏み忘れ、幻となった。このチョンボも長嶋らしい。
長嶋の人気の秘密は、1959年6月25日、天覧試合でのサヨナラホーマーに代表されるように、ここぞという場面で、ヒットを打ってくれることたった。
そして、ファンへの徹底したショーマンシップがあった。
長嶋はヘルメットを一回り大きめにしていた。それだと空振りしたときヘルメットが飛び、観衆が湧くからである。
サードでの守備範囲も広く、ショートまで侵食するのは当たり前。ショート正面のゴロは横から飛び出し、軽く捌いた。
ピッチャー横も守備範囲で、ボテボテのゴロは「オレが捕る!」とばかり捌く。ファーストにスローイングした右手の薬指と小指がピクピク動き、その姿に観客は熱狂した。
その反対に、フライの捕球はあまり興味を示さなかった。フライは捕るだけで、見せ場がないからである。だから平凡なフライは、ショートの黒江透修に任せていた。
また、巨人が大差で勝っているときにゴロが飛んでくると、わざとトンネルをし、観客を楽しませた。
こうして長嶋は、王貞治とともに、昭和40年代の巨人常勝の立役者となった。
だがそんな長嶋にも、体力の限界がやってくる。1971年は打率.320で6度目の首位打者を獲ったが、72年は.266、73年は.269と、徐々に成績が落ちて行った。
そんな秋の日、長嶋は川上哲治監督に呼ばれた。
「長嶋、私は今年で監督を辞める。お前は今年で現役を辞め、来年は監督をやれ」
そう、川上はおもむろに切り出した。
だが長嶋は
「地位も名誉も要りません、あと1年、1年だけ現役をやらせてください」
と頼みこんだ。川上も了承し、こうして長嶋の1974年が始まった。
だが長嶋は調子がパッとしない。6月にはついに先発メンバーから外れ、ときには1番を打つことにもなった。調子が上向いてきたときも、使ってもらえないときがあった。長嶋と川上との関係が、なんとなくギクシャクしていた。
実は長嶋は、あと2~3年は現役を続けるつもりでいた。しかしもうダメである。夏頃には、今年限りでの引退を決めていた。
10月12日、ナゴヤ球場で中日ドラゴンズが優勝を決め、巨人のV10はなくなった。同日、長嶋が現役引退を表明した。
翌13日、中日とのダブルヘッダー最終戦が引退試合にあたったが、雨天中止で翌14日に順延となった。
ところがこの日は中日が名古屋市で、祝勝パレードを開くことになっていた。主力選手の高木守道は、このパレードを蹴ってでも長嶋の引退試合に臨みたかったが、球団にダメを出された。
余談だが、しぶしぶパレードに参加した高木は、ファンとの握手攻めに長時間遭い、両手が腫れてしまった。そのため、ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実力を発揮できず、チームも2勝4敗で敗れた。
もし高木が長嶋の引退試合に出場していたら、日本シリーズも違った結果になっていたかもしれない。
さて、10月14日の引退試合である。長嶋は第1試合に3番・サードで出場し、4回に15号本塁打を放った。7回には王も本塁打を放ち、通算106回目のアベックホーマーとなった。
第1試合終了後、長嶋は観衆のコールに応えてダグアウトを飛び出し、外野を一周して、その声援に応えた。
第2試合は4番・サードで出場。最終打席はショートゴロのゲッツーに倒れた。プロ初打席は三振、最終打席はゲッツー。これも長嶋らしかった。
試合終了後は長嶋の引退セレモニーがあった。
昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、きょうまで17年間、巨人ならびに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援をいただきまして、誠にありがとうございました。
皆様から頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、きょうまで私なりの野球生活を続けてまいりました。いまここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意いたしました。
振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい大きな拍手を、この背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれました。
また不調なとき、皆様の温かいご声援の数々のひとつに、きょうまで支えられてきました。我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は敗れ去りました。
ここで野球界に永遠に残る、あの名フレーズが出る。
私はきょう引退をいたしますが、
我が巨人軍は永久に不滅です。
「永久」か「永遠」かはクイズで出されるところだが、正解は「永久」である。
テレビで紹介される映像ではここまでだが、実際はこの後も続く。
今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が明日の勝利のために、今日まで皆様方からいただいたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。
こうして長嶋の現役生活は終わったのだが、改めて問う。長嶋の引退試合は10月14日だったのか?
答えはYesであり、Noである。
実はこの年の秋、ニューヨーク・メッツとの日米野球が組まれた。全18試合の長丁場で現在では考えられないが、それに長嶋も何試合か出場していた。引退が確定した棋士が、竜王戦6組の昇級者決定戦を戦うようなものである。
最後の出場となったのは11月4日、後楽園球場での一戦である。第1打席で長嶋はヒットを打ち、この時点で打率4割越え。野球ファンは、長嶋は来年も現役をやるんじゃないか、と本気で願望したのだった。
最終打席はサードゴロだったと記憶する。
以上、これが本当の、長嶋の現役最終試合であった。
11月20日、メッツとの最終戦後に、川上は監督勇退を表明する。横には長嶋が列席した。シーズンオフにつきもののスーツでなくユニホーム姿なのは、このような理由であった。
そして1975年から長嶋の、波乱万丈の監督人生が始まるのだが、それはまた、別の話。
長嶋のニックネームは「ミスター」「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」である。「ジャイアンツ」はともかく「プロ野球」とは、最高のニックネームではなかろうか。
そしてきょう10月14日が、「スポーツの日」として祝日だったのも、いかにも長嶋らしい記念日であった。
長嶋茂雄さんも、もう今88才。体調が心配である。
わたくしTod氏の父親も今86才と高齢で、長嶋茂雄と同世代である。聞いた話だと、父親は慶応大学だったのだが、昔、立教大学の長嶋茂雄さんが出場する慶応vs立教の神宮球場での試合を観たらしい。しかも大学時代の長嶋茂雄さんのホームランを生で観たと言ってました。
父親はもちろん大の巨人ファンである。
Tod氏の父親の話をしてしまいスミマセン。実は昨日10/15に、とある病院に入院しましたTod氏の父親が、車イス状態で、わたくしが入院を手伝いました(シンドイと言ってました、悲しい現実)
おお、ご尊父は長嶋選手のホームランが見たことがありましたか。それはすばらしい。
ご高齢なのが心配ですが、回復を祈ります。
実は私の父も86歳なので、他人事ではありません。
なるようにしか、なりませんか。
長嶋選手の引退試合があるのを思い出した。
さわやかな秋の青空が広がっていたと思う。私の記憶の中では。
我が巨人軍は永久に不滅です。
50年後の今、賞味期限が切れてしまったと思いますが
昭和の巨人ファンの心の中では生き続けているのでしょうか?
私は長嶋茂雄の引退試合を知らないんですよ。リアルタイムで見た人がうらやましいです。
巨人90年の歴史の中で、あの引退セレモニーは。名シーン1位だと思います。