昭和17年(1942年)6月、日米太平洋戦争のさなかミッドウェイ島近海で
日米の航空母艦群同士の戦闘が行われた
日本は前年12月8日、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊を急襲した、これが
日米太平洋戦争の開始だった
日本軍はこの翌10日、マレー半島沖合でもイギリスが誇る巨大戦艦「プリンスオブウェールズ」と
巡洋戦艦「レパルス」を航空機によって攻撃、二隻とも撃沈した、航空機対軍艦の初めての戦闘は
航空機の圧倒的勝利に終わった
日本は大陸での陸軍の戦闘に加えて2方面での戦争を開始したのだった
真珠湾攻撃では、アメリカ海軍の主力戦艦数隻に大打撃を与えた、これによって制海権を
握ったかに思われたが、航空母艦は一隻も真珠湾にはいなかった
またこれを探査攻撃することも時間的に不可能だった、そのとき見逃した航空母艦群
とのミッドウェイの決戦になったのだった
しかし日本は敵艦隊の発見に手間取り、攻撃方法を爆弾か魚雷か決められないでいた
ようやく敵空母を発見したときには攻撃機は爆弾をつけていた、急いで魚雷に積み替え
ようとしたとき米軍の攻撃機がいち早く飛来して攻撃を開始した
戦闘機が迎撃に飛び立つ、米軍の護衛戦闘機と激しいバトルが始まった
しかし甲板が広く、戦艦のように多くの機関砲も装備していない航空母艦は丸裸同然
唯一艦載戦闘機の護衛だけが頼りだ、しかし敵も多くの戦闘機で襲来している
戦闘機同士の戦いの合間を敵の攻撃機や雷撃機は航空母艦を狙って攻撃している
次々と甲板に爆弾が命中して、日本軍の主力大型航空母艦「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」
の4隻が相次いで沈没した
一方、間一髪舞い上がった日本軍の攻撃部隊も敵の航空母艦を一隻撃沈して母艦に
戻ってきた、しかし彼らがたどり着くべき母艦の姿は海上には無かった
彼らは行き場を失い、燃料が切れると次々と海に墜落していった、航空母艦だけで無く
ベテランパイロットが乗った航空機までもが全滅してしまった
日本は開戦半年で重大な敗戦を喫してしまった
しかし日本海軍には強力な戦艦群が無傷のまま残っている、まだまだ敗北の意識は無い
いずれ敵討ちのための海戦をおこなう決意をあらたにしたのだった
しかし、アメリカは戦艦同士の砲撃戦を避け、航空母艦を主力にした米軍航空機対日本戦艦
の作戦に切り替えて、航空母艦と攻撃機の増産を開始した
もはや日本海軍のお家芸、日露戦争の日本海海戦で大敵ロシア海軍を100対0で打ちのめした
艦砲対決の再演は夢となったのだった
米軍の護衛戦闘機の防弾装備も格段に改善され、しかも馬力のある重戦闘機を大量に製造
したので抜群の旋回能力で米軍戦闘機を餌食にしていたゼロ戦も、こうした重戦闘機に
歯が立たない
日本の戦闘機は旋回能力と速度を航続力を重視したから軽量で装甲がが薄いので次々に
撃墜された、もはや初期の米戦闘機F4FやカーチスP40などとはレベルが違う敵になった
グラマンF6F ロッキードP38 ムスタングP51などが髙防御重装備、且つ時速600kmを
超える高速で戦場を飛び回る
護衛戦闘機が無い日本艦隊は、急降下爆撃機ダグラスドーントレス、水平雷撃機アベンジャーに
襲われて次々に海底へ沈んでいった
フィリピンレイテ湾に突撃していった戦艦武蔵、沖縄に片道燃料で乗り込もうとした戦艦大和も
次々と撃沈された
近年、アメリカの沈没船捜索チームが次々に日本海軍の沈没艦の発見に成功している
戦艦武蔵も発見され、今度は5000mにもおよぶ深い海底で空母赤城、空母加賀の二隻の
姿を発見したそうだ
数千の乗組員、そして航空機と共に沈んでいった航空兵、80年近く経ったいまでも彼らの
骨一つ戻ってくることは無い
平和なこの時代にかっての敵国国民に発見されていかなる思いであろうか
敵も味方も互いに面識も無く、個人的には恨みも憎しみも無い人間同士
それが戦争というリングの中に放り込まれて憎しみを糧に闘志をたぎらせ、敵を殺すという
英雄行為に仲間同士の連帯感、血の絆に酔いしれるようになる
運動会でさえ、あるいはスポーツでさえ相手を打ち負かそうと一瞬獣のような殺気をもつ
瞬間がある
人間はまだまだ獣の本能を失ってはいない、ひょうひょうとした無慈悲なポーカーフェイスで
戦場に挑むアメリカ兵、闘志をむき出しにして銃を掲げるイスラムの戦士
日本だけが遅れてしまったのか、それともヒューマンとして最先端を日本人が走っているのか
それはわからない
中国が航空母艦を持つようになって、我が国もヘリ母艦を改良して航空母艦化した、その二番艦が
奇しくも加賀である、一番艦は太平洋戦争当時の航空戦艦日向と同名、どちらもかっての
航空母艦に匹敵する大きさだそうだ。