23日朝、曇り空、待ちかねた同級生旅行の朝だ
吉本級の超スタープレーヤーN子が療養のため不参加になって3年
更にスター見習いのY子は97歳の義母が急に亡くなって欠席に
横綱、小結を欠いた今年のメンバーは男6女4、いつもは女性が多いのに
今年は逆になった
この男性メンバー6人全てが大型免許所持、全員がタバコを吸わないという
偶然似たものメンバー、しかも全員イケメンときているから、女性陣はたまらない(はず)
メンバー参加には厳しい掟がある、「メンバーよりいい男、いい女は入れない」
これがルール
さて7時半出発、運転手はやっぱり私だった、北陸道で最初のポイント会津.喜多方へむかう
出発してからもずっと曇り空が続き、上越インターを過ぎるとなんだか怪しい黒い雲
そのうち雨が当たり始めた、予報は曇りのち晴・・・あれれだ
しかし新潟市に近づくと次第に晴れてきた
喜多方はラーメン店が200軒くらいあるらしい、そんな中で今回のラーメン店は大きな駐車場が
あって、観光バスも2台入っていた、こう書くとドライブインのイメージだがその反対
この店は、市内一だか県内一だかの酒問屋だった建物をそっくりそのまま使っているのだとか
土間だけ作り直したそうだ、文化財とか言ってたきもするが..
中庭もあって、なかなか趣がある
一店一店に異なった味わいがある喜多方ラーメン、この店の自慢はチャーシューと販売もしている自家製麺
なのだそうです
醤油ベースのまろやかであっさりとしたラーメンです、ラーメンの前に、こんなお弁当が出てきました
酒の肴にこれはいい、イナリもついていて小腹を満たすに丁度よい
確かにチャーシューはとろとろで美味しい、販売もしています
いよいよ喜多方から米沢へ向かいます
京都大阪、名古屋などは戦国時代から幕末にかけて英雄伝説が多いところですが、越後高田から長岡
会津、米沢にもローカル的な英雄伝説が多くあります
戦国時代には春日山城の上杉謙信が超有名ですが、謙信の姉の息子、景勝が跡目争いに勝って
越後の盟主となった
しかし豊富な金を産出する越後を、秀吉に取り上げられて、かわりに会津、米沢.庄内120万石という
天下3位の領地を与えられた
明治維新の戊辰戦争では会津は上杉ではなく、会津松平家が治めていた、しかし京都守護職として
新撰組を配下にして薩長の浪士を多く捕縛殺害したため最後には朝敵とされて新政府軍から
見せしめ的な理不尽な攻撃を受けた
そんなとき越後長岡藩は会津藩と助け合って新政府軍と戦った、長岡は城を落とされたが取り返す
という荒技をみせて小藩の意地を貫いた
再び落城した後、会津へ落ち延びる途中で長岡藩の家老、河井継之助は会津坂下付近で落命した。
赤穂藩家老の大石内蔵助と像が重なるのである
紅葉の名所と聞いて期待してきた大峠であったが、まったくの空振りだった
そしてあっけなく米沢に到着、ここで初めての観光「上杉神社」
上杉謙信公、景勝公など代々が祀られて居る(墓所は別地)
謙信はカリスマ的ワンマンタイプだが、景勝は軍師直江兼続に采配を任せる二人三脚タイプ
そんな三人の銅像があった
上杉景勝は1600年の関ヶ原の決戦で敗れた石田方西軍に味方したために、命は助けられた
ものの120万石の領地を取り上げられて米沢30万石に減らされた
その後、15万石に減らされ、戊辰戦争では会津藩と共に新政府軍に敵対したが恭順
明治まで続いた。
さて米沢の後は高速道で上山まで走り、そこから蔵王のお釜まで行く
天気は最高、お釜がくっきり見えそうな予感、山も色づいている気がする
くねくねと上っていく、まだ20kmもある
メンバーの中に長距離トラックの現役も居るので、このあたりも詳しいから助かる
私も3度目のお釜だが、同級生とは初めて、また違った楽しさがある
中腹あたりがようやく色づいていた
お釜へのリフト乗り場に着いた、私が昔来たときここからスキーリフトに乗って
上がったのでここで駐車しようとしたら、現役ドライバー氏が
「まだ上へいくんや、お釜のすぐ隣につくさかい」
半信半疑で走り出した、燃料計がかなりEに近づいていて、少し不安でもあるが
すると料金所が・・・「なにや? わしきたときには、こんなもんなかったがなあ?」と
ドライバー氏
ともあれ全員がリフトに乗るより安いだろうと納得して進んだ、間もなく到着
「こんだけ走るのに金とるんか!」さすがトラック野郎は激しい
そかし彼が言ったとおり、お釜のすぐ側まで来たのだった
そしてお釜はくっきりと見えた、気温は13度、少し肌寒い
さて、今夜の宿、蔵王温泉へむかう、どんな宿だろうか,楽しみだ
つづく