羽柴秀吉が毛利との最前線からひた走り、居城の姫路城でようやく一息ついたのは本能寺の変から5日後の6月7日のこと
同じ日、京を秘かに脱出した明智勢は丹波福知山城にいた、亀山城で軍を整え兵糧、武器弾薬を補充し兵を集め福知山城に着いたのだ
ここで二日間、次の策を練り、再び兵と兵糧と武器弾薬を整えて10日の朝発った
行き先は秀吉の居城姫路城、秀吉は備中で毛利勢と戦っている、姫路城には留守居のわずか数百しかいないはず
今や丹波兵を集めて二万にふくれ上がった明智軍である、たやすく姫路は落とせるだろう
毛利にはすでに使いを走らせた、姫路から西に兵を進めれば秀吉の背後を突き毛利勢と挟み撃ちできる
光秀は知らなかった、秀吉が自分を討つために毛利と和睦して大坂に向かい今は姫路で休んでいることを
同じ頃、織田信忠は京に居た、光秀が脱出したことを知ったのは6日の昼であった、まだ信雄は土山に来ていない
それで岐阜からの先発隊三千、蒲生の兵千と伊賀の兵五百、自身の旗本千、合わせて5500で来たのである
間もなく岐阜と尾張から一万、近江の信長の遺臣も集まるだろう
更に細川藤孝、忠興親子、大和の筒井にも参陣するよう命を発した
大坂の信孝はようやく手勢をまとめて光秀の娘婿で叔父にあたる津田信澄を討ち果たした
大坂ではこれが仇討ちと庶民の間でもてはやされて信孝は有頂天になっていた、信忠兄は逃げたでは無いか、わしの方が後継者にふさわしいと
信忠から参陣の使者が来たが「我らは大坂より光秀を追って成敗する故、京に上るのは光秀の首を獲ってからと兄上に伝えてくれ」
と信忠の命令を無視したのである
北陸でも越後でもすでに信長死すの報は届いていた
越後の上杉は織田に三方から攻められて風前の灯火であったが、光秀の謀反でうろたえた織田軍を川中島と上州口で打ち破り
滅び去った武田家の遺臣、真田昌幸を参下に加えて北信濃から善光寺平、佐久上田方面までを平定した、越中でも魚津城を奪還した
加賀府中を守る前田利家が北陸軍団長の柴田勝家に言った
「親父殿、こうしている場合ではありませぬぞ、急ぎ上杉と和睦して光秀を討たねばなりますまい」
「まあ待て又左、そう急くではない、もしや信長様はうまく生き延びたかもしれぬ、いまだ亡骸は見つからぬとの事じゃ」
「何をのんびりと、今は一足でも早く都に上り明智を討つことが第一の任務でござるぞ」
「ははは、そなたは気が短くていかん、もっと様子を見てから動けば良い、もし我らが越中を離れて、信長様が元気でおられたら敵前逃亡で処罰されるぞ」
「まだ言われるか、上杉だとて余力などござらん、越中の佐々成政様に1万ほどの兵を与えて飛騨の与力を後詰めにすれば均衡は保てましょう
さすればこの前田又左衛門が先鋒となり、佐久間玄蕃殿を大将に2万ほどで近江に押し出しましょう」
「ははは又左が総大将のようじゃのう、まあ良い、わしに任せておけ、それほど言うなら3000程を(金森)長近に与えて様子を見にやろう
信忠様もご健在という事であるから、もし所在がわかれば長近を合流させて、それから先は信忠様のお指図を仰げば良い」
北陸方面の織田勢はこのような状況であった、総大将の柴田勝家に緊迫感は無いようだ

一方、堺を逃れて僅かな家臣と伊賀道を逃走していた徳川家康は途中幾度かの危機が訪れたが
織田に蹂躙された伊賀の者に救われて、無事に伊勢の海辺に達して伊良湖崎に渡り浜松に戻った
堺まで一緒に来ていた穴山梅雪たちとは山に入る前に別れたが、梅雪は野武士に襲われて落命した
武田家の一門だった穴山梅雪は駿河口を守っていたが、早くに徳川家康に寝返り、武田家の滅亡の糸口を作った人物であった
一方、家康の逃走を助けた伊賀の服部半蔵ら地下人は家康に採用されて以後、徳川家の家来として働く事になる
皇居の半蔵門は服部半蔵の名を冠した地名である、織田長益(有楽)もまた有楽町として名を東京に残したと言うことだ
浜松城に戻った家康の心境は複雑である
はたして明智光秀を敵とするのか、味方とするのか?
羽柴秀吉同様に信長に頭を押さえられて死生権を握られている
若き日の織田信長による桶狭間急襲で今川義元の人質から解放された家康は、今また明智光秀の謀反で織田信長から解放された
桶狭間の時は小さな岡崎城だけが領地であったが、今は三河と駿河.遠江の三ヶ国(かっての主、今川義元の所領と同じ)の太守である
最大動員兵力も今や3万となり、東海一の太守である
それが怖い兄貴分の織田信長から解放されたのだ、今や互角以上の敵と言えば関東の覇者北条氏だけだ
散々痛めつけられた強敵武田氏はこの年の一月に織田.徳川連合軍で滅ぼした
越後の上杉も今や神将謙信はなく,甥の上杉景勝が自国を守るだけで精一杯である
あとは織田家がまとまれば元の木阿弥、今度は信長に代わって信忠が家康を配下にするだろう
今、家康がやることは二つだ、一つは勢力拡大、この混乱で皆が京周辺に気をとられている隙に織田家臣が逃げ出して空になった甲州を手に入れる
もう一つは織田の三兄弟を分裂させて一つの巨大勢力にしない方策を立てることだ、織田家分断!、これが徳川家を守る最大の作戦である
時を同じくして、まもなく尼崎に向かって発とうとしている羽柴秀吉もまた
家康と同じ考えでいたのである。 織田家分断!
