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光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑭

2021年02月19日 19時30分51秒 | 光秀の本能寺
思ったより長くなってしまって戸惑っていますが・・

事件が起きたのは稲葉山(岐阜城)会議の一ヶ月後であった
なんと滝川一益が見るも無惨な疲れ果てた風体で尾張に表れたのが15日前のこと
尾張の太守となった織田信孝は一益を介抱して、ようやく人心地つかせたのであった
聞けば北条軍の追っ手からようやく逃れ、徳川兵や味方のはずの木曽の兵にまで遮られ、なんとか機転を利かせて尾張にたどり着いたという
逃避行の間に思ったのは信長が死んだという情報は全国に知れ渡り、織田家の威勢は衰えたと感じたという
滝川は織田家の四家老の一人であるが、徳川にも木曽にもまったく威信が通用しなかったからである
尾張で一泊した翌日、信孝の兵に守られて滝川は岐阜の信忠に帰還のあいさつに向かった
信忠は滝川の無事を喜んだ、そして直ちに織田信雄に使いを走らせた、それは信雄を驚かせるものであった
「滝川一益が無事に戻って来たのだ、そなたに加増した一益の旧領をそっくり一益に返してもらいたい
但し信孝の旧領中伊勢は、そのまま信雄の領地として与える」との内容だった
これを聞いて信雄は激怒して信忠に抗議した、しかも国境に兵を配置して滝川勢を一歩たりとも入れぬと言った
信忠は逆に激怒して「天下人のわしの命令に逆らい兵を出すとは、これは反乱だ,織田家の威信をかけて攻め潰す!」
戦国の世、自分を脅かす最たる者は兄弟だという、骨肉の争いはどこでも起きる、上杉謙信でさえ兄と戦った(兄を隠居させたともいう)
信長も弟と戦って殺している
そして滝川一益に兵5000を与え、あとは旧臣どもを集めて加勢させよ!伊勢はそちの切り取り次第に任せる!」
伊賀口からは蒲生氏郷と島左近が5000の兵で伊勢に向かって進んだ
岐阜からも稲葉が兵を3000で滝川に与力して攻め込んだ、また尾張の織田信孝にも軍を出すよう命じた
信雄は桑名城を捨てて、神戸城まで後退した、そして伊賀道の伊勢亀山城と共に防衛線を築いた
信孝は亀山まで兵を進めて亀山城の信雄軍を攻めたが堅固な城は落ちなかった
しかし信忠の命を受けた大和の筒井勢が堀秀政軍と共に
伊勢の安濃津城を狙って攻め寄せてきた、驚いた城主織田信包は信忠軍に寝返った信雄軍はこれによって分断された、
亀山城主の関氏も降伏し、神戸城も降伏した
3万の軍勢に攻められてついに織田信雄も観念して降伏した、織田信忠にとって信雄は同腹の弟であるから許した
しかし信雄の3家老は責任をとって切腹させられた、そして伊勢の領地全てを取り上げ、三河安城で5万石を与えて監視を厳しくした
信孝には旧領の中伊勢を褒美として加増した、滝川一益には元の北伊勢を与えた、南伊勢15万石で堀秀政に与えた、堀の坂本は信忠が直轄とした
わずか数日で信雄の反乱を鎮めた信忠は、大いに信長の後継者としての名声を高めた
気を良くした信忠は安土城の本丸御殿の落成がなる10月に大々的に信長の葬儀を執り行うことにした
そして忠臣である柴田勝家を葬儀委員長に、丹羽長秀を副委員長に指名して準備するよう命じた
ところが9月になると越後の上杉の動きが激しくなってきた、魚津城、松倉城の上杉軍が増えてきて
佐々成政の守る富山城周辺の田を荒らすことも度々となり、佐々も兵を出して応戦するが、出ると引きで油断がならない
また飛騨方面からも動きがあったので警戒を厳重にせざるを得なくなった、こちらには能登の佐久間が警戒した
こんなことで柴田勝家は越前に釘付けとなったので、葬儀委員長どころではなくなった
信忠は丹羽長秀に委員長を命じたが、長秀は辞退して真っ先に光秀と戦った羽柴秀吉こそが相応しいと推挙した
信忠は丹羽がそう言うので仕方なく秀吉を指名した、秀吉は中国戦線を宇喜多と黒田官兵衛にまかせて上洛した
勿論、信長の4男である養子の羽柴秀勝、姫路城主となった弟の羽柴秀長も一緒に上洛した
この頃、どこからか明智光秀が徳川家康に匿われているとの噂が流れるようになった
しかも織田信雄も密かに家康と接触しているとの噂も同時に流れ出していた
そんな噂は信雄の耳にも入った
信雄は勿論そのような動きはしていない、だが信忠が真に受ければ命が危ない信雄は慌てた、そしてなんと闇に紛れて三河の徳川領に逃げ込んだのだ
驚いたのは報告を受けた徳川家康である、しかし家康は考えた
(今のわしは三河、駿河、遠江、甲斐、信濃の一部を領している
その総石高は150万石近い、しかも背後の北条氏は250万石の大身で同盟者である、わしの総動員数は4万を超える
万一織田との戦争になっても三河以来の家臣等があれば互角に戦う自信はある、もはや織田の風下に立つ必要はない
今川義元様が信長に桶狭間で討たれたあと、今川の人質だったわしの運が開けて独立を果たした
今また信長公が本能寺で明智に討たれて、わしは天下への道が開けたかも知れぬ、明智こそわが救世主かもしれぬ
あのまま健在で越後の上杉、四国の長宗我部が相次いで滅び、毛利が降伏すればわしとていつ光秀のような立場にされるやも知れなかった
ははは、噂の通り光秀がわしを頼ってきたなら家臣として取り立てても良いかもしれぬ、わしには好意的な男であった)
そして家康は病を理由に信長の葬儀には重臣で軍団長の石川数正と命知らずの大将本多忠勝を代理で参列させた
不穏な空気の中だったが、本多忠勝の異様な殺気に誰も近づく者は居なかったという
二人は無事に役目を果たして浜松に戻った、だが家康が来なかったことで一気に噂は信じられ、織田信忠は家康を警戒するようになった
そして噂を流したのは勿論、羽柴秀吉の参謀黒田官兵衛である、家康と同じく官兵衛も秀吉に天下取りを吹き込んでいたのである