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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 142 揺れる秀吉 家康の腹の内

2023年02月01日 17時51分01秒 | 貧乏太閤記
 文禄3年(1594)が明けた
 朝鮮の状況が秀吉に聞こえてきた、朝鮮に在陣する兵数は5万で主に全羅道、釜山を中心にして慶尚道に十幾つかの日本式の城を築き、九州と四国、中国の大名に守備させている
それらの城は、また戦となれば日本からの増援部隊を直接城下に送り込めるよう、津々浦々に面して築城したのである。
そして、秀長亡き後、一門衆として位置付けた毛利一族に、釜山一帯の要を任せてある
すでに大将格の毛利輝元、小早川隆景は帰国したが、毛利秀元、吉川広家、小早川隆景の養子だった毛利秀包らが守将となって残っている。
 去年の10月にはようやく宣祖が漢城に戻って来た、そして日本が奪った南部を奪還したいと思ったが、明からは「ようやく得た平和を乱してはならぬ、正式に倭国が我が国の属国になるまでまて」と釘を刺されている、朝鮮単独で、日本軍から南部を奪いかえすのは至難の業であることは、彼らもわかっている、荒れ果てた朝鮮の地を立て直すことが先決である。
そもそも、漢城では景福宮など主な王宮は焼けてしまい、王たちは一族の館でであった屋敷に住み、そこを改装して仮の宮殿とした、徳壽宮(トクスクン)である。
 一方、大明国皇帝からの使者であった沈惟敬(しんいけい)は小西が二人の明使を秀吉との対面の為、名護屋へ行った後も小西が守る釜山の熊川城で、宗義智の客分として滞在していた。
沈のもう一つの仕事は、日本軍の内情偵察であったから、日本軍の中で月日を費やしても不都合はなかった
間もなく、小西が秀吉から追い払われるように熊川城に戻ってきたが、お互い慌てることもなく日々を過ごした。
明国も日本も、戦の無い今の状況を好ましく思っていた、少なくとも朝鮮在陣の諸将は加藤清正を除いて不戦の平和を望んでいた
兵士の30%を、どの部隊も失っていた、疲れ果てて体の傷も心の傷も癒したい気持ちでいっぱいだったのだ。
幸いなことに、秀吉にも秀頼が生まれたことで戦どころでは無くなっていた
それで11月いっぱいまで沈も小西も動こうとしなかった
そして、とうとう沈は動くことを決意した、遼東鎮守の副将軍宋応昌(そうおうしょう)から、太閤秀吉から大明国万歴帝への降伏文書を要求してきたのだ。
 当然ながら、小西と明の偽使節が名護屋で、秀吉に伝えた口上の降伏は全くのでたらめであったから、秀吉には明が降伏したと伝わっている。
今度は、その逆をいかねばならぬ、秀吉からの明への、明国降伏条件文書は、既に明使から沈の手に渡っていて、偽明使は知らぬ顔で空手で遼東に帰った
本来は、小西の家臣である内藤如安が口頭で、秀吉の降伏を伝えるつもりで旅立っていたが、秋に遼東で足止めされたまま軟禁されていた。
そして北京に、遼東から伺いがたてられたが、ようやく返事が来て、秀吉の公式な降伏文書を持ってくるようにとなったのだった。
 「小西殿、こうなれば、あなたと私で文書を作るしか仕方あるまい
運が良いことに、朱印はこの正式文書にあるから、それを偽造すればよい
中身をどうするかだ」
二人は知恵を絞って一晩で、秀吉の降伏文書を作り上げた、それを沈が持って
遼東に行き、そこで内藤と連れ立って北京の紫禁城へと発った。

 2月、秀吉は、秀頼の誕生を愛でる為に「吉野」で花見と和歌の会を催した
招かれたのは北政所、淀殿、京極殿をはじめとした愛妾ら、関白秀次の正室や愛妾たち、主だった大名の奥方たちと大部分が女性で、男は秀吉、秀次、秀保、徳川家康、毛利輝元(体調悪く欠席)、小早川隆景、前田利家、蒲生氏郷、浅野長政、内裏の畏き方々、そして名高き茶道の宗匠、歌人のみであった。
 この席では秀吉、秀次は能を舞ったり、和歌を歌うなどして和やかに過ごしている
秀次には特にわだかまりはない、ところが秀吉はそうでなかった
とはいえ秀吉自身は秀次に対して特に疑心を抱いているわけではない、ただ産後の体調不良が猜疑心を掻き立てるのか、淀の秀次に対する不信感は募るばかりで、顔を見るたび秀吉に「なんとかできませぬか」などと言う
これには秀吉もいささかうんざりしてきたので、足が次第に遠のいていった

 時を去年に戻す
明、朝鮮との戦が休止状態になって、渡海していた諸大名も次々に名護屋に帰って来た、朝鮮に残っている軍勢は渡海軍15万の三分の一の5万人になった。 
名護屋にいる諸大名も、秀吉が8月に京に戻ってから次々と帰国している
徳川家康も吉野の花見のあと、本多正信と共に、名護屋にいる1万の兵のうち、本多忠勝など3000を率いて江戸にもどった。
名護屋の兵は、榊原康政と、井伊直政に任せた
江戸城に着いて数日が過ぎた、ようやく人心地ついて家康の知恵袋、本多正信と家康は今後を語り合っている
もともと、一を聞けば、十を知る間柄であるから、口数は少ない
「豊家は危うい」家康が言えば
「まさに」と正信が答える
「どう動く」
「関白とは距離をおくがよろしいかと」
「ふむ」
「一年もちましょうか」
「危ういのう」
「太閤は耳を塞いでおる」
「淀殿の声しか聞こえず、子の顔しか見ておりませぬ」
「われらは今後いかに豊家と付き合えばよいかのう」
「内々に北政所さまに近づくのがよろしいかと」
「うむ」
「加藤、福島などは何かと連絡をとっておるとか」
「政所さまは、あれでなかなかの策士じゃのう」
「苦労人でござる」
「大坂と京は、いずれ」
「ありましょうな」
「われらに目はあるか」
「多少は」
「われらは、つかず離れず時を待とう」
「それがよろしいかと」
「ふふふふ」



酒の話

2023年02月01日 08時45分53秒 | どうでもいいこと
寒いのに何かウィスキーをロックで飲みたくなって、ロックアイスと一緒に買ってきた
銘柄は「ジョニ赤」、値段も980円とお安い、「ジョニ黒」も2000円ほどで売っていたが、久し振りの舌慣らしには赤でちょうど良い
これを飲むのは30年ぶりくらいかな、まさか980円とは思いもよらなかった
田舎でこれだから、都会なら600円くらいで手に入るのでは?
30代半ばころ、初めて国外旅行で台湾へ行ったが、あの頃は国内では赤5000円だか7000円だかで、黒1万円などと言っていた。
それが免税店で2500円で一人5本買えると言うので、酒嫌いの友達にも頼んで10本買ってきた思い出がある。
日本酒の越乃寒梅、雪中梅などもこちらは希少価値で1万円という値がついていたが、それも今は普通に買える、もっとレアな日本酒も増えてきたし、どれが一番とかなくなり、自分の一番を探す時代だ。
私はアルコールは何でもいいので、飲みに出るとよく「おれはビールだけ」とかいう人がいるが、なんでもいいというのは便利だと思う
ビールだって銘柄指定をする人がいて、それが置いてない店も結構あって、「それじゃなければ帰る!」などと困らせる人もいる。
私は何でも飲んだ、日本酒、それだって熱燗から吟醸酒、純米酒、生酒、出来立ての新酒、造り酒屋の旦那も仲間だったので、珍しい酒もずいぶん飲ましてもらった。
ビールも銘柄関係なしでなんでも飲む、ウィスキー、焼酎、中国の白酒(ひな祭りのシロザケではない、50度以上の度数がある強い酒だ
紹興酒も好きだし、ワインだってOK!、白でも赤でもロゼでも、甘口でも辛口でも何でもよい
楽しく飲めれば、なんでもいい、飲食店と言う商売柄、酒の理屈は少しは言うが、あまりこだわらない。
そんな私も30歳までビールコップ一杯で酔っていたのだから、人間はわからない、70までは4軒くらい梯子酒してしょっちゅう御前様で、歩いて大けがしたことも一度や二度ではない、自慢することじゃないが。
仲間内では「よっぱらい」の称号ももらった、今でも誘われればほとんど断らない、付き合いのいいやつなのだ。
但し、コロナ以後おさそいは、がったり減った、去年は一年間で一桁しか飲みに出ていなかった。

今日は最高の晴れ間が出た、5日ぶりに6000歩ほど歩いた
雪道はやっぱり歩きづらい。


秋のうろこ雲みたい