堺を発つとき、見送りに来た僧侶に明の使者は「あいすまぬ、もう一通挨拶状があったので、これを後ほど太閤殿下に渡していただきたい・・・単なる外交辞令であるから急がずともよろしい」と手渡した。
「間違いなく、受け取りました、では皆さま道中お気をつけて」僧侶たちは笑顔で使節団を送りだした。
秀吉に、この文書が届いたのは翌日の夕方であった、京、大坂と目まぐるしく動き回る秀吉の所在がなかなか掴めなかったのだ。
全て漢語で書いてあるから、秀吉は読めない、そこで西笑承兌を読んで訳文させて聞いた。
西笑は、読み進むうちに顔が青ざめていった
「殿下!これは由々しき事態でございますぞ」
「何事じゃ、手が震えておるが」
「明の万歴帝は、我が国に降伏などしておりません」
「なに! 何じゃと」
「降伏どころか、殿下が明国に降伏したと書いてあります」
「ばかな! この前の使者が持ってきた文書には明が降伏したと書いてあったのだろう、そなたが読んだではないか」
「いかにも、あの文書にはそう書いてありました」
「まさか、あれは偽文書か? 他には何と書いてあるのだ」
「殿下を日本国の王と認めるから、これからは大明国皇帝に忠節を持って勤めよ。 毎年、大明国に朝貢せよ。 朝鮮にある倭城は全て破壊して、朝鮮国は朝鮮人に返還せよ、日本の軍は全て帰国させよ」と書いております。
「なんだと! すぐにこの文書の真偽を確かめよ」
翌朝には、面会の時の文書は偽物で、あとからのものが本物であることがわかった
「おのれ、儂をたばかったか! これには小西行長が一枚かんでいるに違いあるまい、すぐに名護屋に呼び戻して謹慎させよ、取り調べて返事によっては斬首に処すかもしれぬ」
ついに小西と沈の企みはバレてしまった
「治部少をこれに呼べ」三成はすぐにやって来た
「治部少、朝鮮へ攻め込むぞ、明も朝鮮も日本と和する気など無かったのじゃ、詳しい話はあとで聞かせる、まずはこの手紙を尉山の加藤清正に届けよ
間違っても小西には悟られるな、小西は儂を謀った、許さん! 名護屋に召喚させた」
秀吉は、かって徳川家康と対談した時、家康から「交渉の時間がかかりすぎるのでは」と指摘されて、それ以来、小西、沈ルートのほかに、加藤清正と明の外交僧惟政(ユジョン)のルートを新たに設けていたのだ。
小西行長は名護屋に戻ったところで、奉行に捕えられて秀吉の裁きを待っていた
秀吉の心は決まっていた、五大老と三奉行を前にして「切腹などで許せるわけがない、身内の関白秀次でさえ一族根絶やしにしたのだ、三条河原にて行長は磔、妻子と家老たちは斬首がよかろう、その首は三条大橋の欄干の川辺りに晒すがいい」
真っ先に異議を唱えたのは石田三成であった
「殿下、明国との間に戦が再開されようと言う矢先に、お味方を処刑しては士気にかかわるのではありませんか、大地震で人心が冷え切っています、どうかここはこらえてとりあえずは押し込めくらいにしてはいかがでしょうか」
「バカを言うな、許せるわけがない、儂を謀ったのだぞ」
そう言うと、今度は互いに朝鮮で苦労して戦った宇喜多秀家が
「殿下、怒るお気持ちはごっともです、なれど小西殿は朝鮮の戦では一番乗りを加藤殿と争い、いち早く平壌まで攻め落とした強者であります
また平壌から逃走したともいわれましたが、あれほど難しい退き陣はなかったのです、小西殿が多数の家臣を失いながらも平壌を守ったおかげで、漢城の我らは明の大軍に充分備える時間が出来たのです、どうかお考え直しください」
前田利家も「殿下、小西がやったことは悪いことですが、疲れて士気が下がった兵の為の時間稼ぎであったと思われませぬか、彼は武将としても日本になくてはならぬ立派な男です、彼を失って喜ぶのは明国と朝鮮ですぞ」
「・・・」
徳川家康がダメ押しをした
「殿下、いかがでしょうか、小西は武略だけでなく、交渉に於いてもまだ必要でありますぞ。 前田大納言殿が言われた通り時間稼ぎだったと思います、殿下をも謀りましたが、敵をも謀ったのです、此度も先陣として使い、この汚名を晴らさせた方が我が国にとっても大いに役立つと思いまする、明や朝鮮の益にさせてはなりません
沈とかいう小賢しい小者一人と、百戦錬磨の大将、小西殿の命を同等に扱えば、我が国の大損でありましょう、先陣でお使いなされ、死に物狂いの働きをするでありましょう」
まさか、これだけの反論が、今の豊臣政権のトップから出てくるとは、秀吉は予想しなかった
「わかった、わかった、もう言わずとも良い、治部少よ今すぐ馬を走らせて、『小西の命は太閤が預かった、すぐに釜山に戻り戦の準備をいたせ』と申し伝えるがよい」
太閤秀吉の体に再び若い血が沸き立ってきた、ようやく自分の出番がやってきたようで浮き浮きする心は、なかなか鎮まらなかった。
側室を訪ねたのは言うまでもない、「戦さ」それが秀吉を奮い立たせる起爆剤だった。
朝鮮渡海軍の釜山への撤退、豊臣秀次の粛清、大地震と相次ぐ災難、災害が起こり、10月には年号を文禄から慶長に改めた。
12月に入ると明国との戦を前に、徳川家康を若き時より支え続けてきた老臣、酒井忠次が死んだ
徳川四天王の一人で、年長者の忠次は、東西に分けた徳川軍団の東三河の総大将として指揮を執った。
一方、西三河の総大将は家康の今川家人質時代から仕えた知将、石川数正であったが、小牧の戦の前に豊臣秀吉に口説き落とされて、徳川家を裏切って豊臣家臣となった。
そんなこともあって、家康はますます酒井忠次を信頼して重く用いたのであった、享年69歳であった。