秀次は、このごろになって政所が母のように思える、関白と言ってもまだ26歳の若者である、秀長が死んでからは頼れる人間がいなくなり寂しかったが、北政所が頼りになる人だと今になって知ったのだ。
政所の人脈もなかなかのもので、育てた子飼いの大名はもちろん、親戚になる木下、浅井、三好、それに前田家はもちろん、徳川家康も親しい
家康の次男、結城秀康なども一時秀吉が養子にしたから母のように慕っている、自然そんな人々とも秀次は言葉を交わすことがある。
だが、秀吉の密命を受けた石田三成は、こうした交流を逐一、秀吉に報告している。
それでも秀吉は特に取り上げず、秀次を伏見城に呼んだ
「世間では、おまえと儂の関係をとやかく言う者がおる」とズバっと切り出して、「だが儂は、そんなことは信じぬ、おまえと儂の関係が盤石なことを知らしめねばならぬ、拾いと、そなたの娘を娶わせようと思うのじゃ
もちろん、拾いは赤子だし、おまえの娘も幼いから約束をするだけじゃ、拾いが10歳になったら娶わせばよいであろう」
「はい、某は異存などありません、すべて殿下にお任せします」
「そうか、それは良い、うん、それが良い」
赤子と幼児の婚約が決まり、大名たちに知らされた
それは誰から見てもバカげたこととしか思えない、秀吉の焦りが見えてくる
大名たちの間では密かに「秀吉の権勢」にかける者と、秀次の「将来性」にかける者が出来つつある、それもまた神経質な石田三成の調査でまとめられて、秀吉の知るところとなっている。
そのような噂は秀次の家臣にも聞こえてきて
「関白殿下(秀次)、こうこうこのような噂が世間で広まっておりますが、いかがなされますか」付家老の前野長康が言った
前野長康、秀吉がまだ藤吉郎だったとき美濃の郷士で川並衆の親分、当時の蜂須賀小六の弟分であり、秀吉の出世の始まり「墨俣城」建設で活躍した男である、その後は秀吉の家臣となり大名となったが、秀次が大大名となったとき秀吉に命じられて付家老となったのである。
秀次は意にも介さず、「言いたいものには言わせておけばよい、いずれあぶり出して成敗してくれよう」
こんな数々の発言もどこからともなく漏れて、三成から秀吉の耳に届く
「関白様の側室集めは目に余るとのこと、一御台様にご執心かと思えば、はるか羽州の最上の15歳になる姫を都に呼び寄せるとか、すでに側室は30人を越えたそうです」
「たわけ者が、5人10人は構わぬと言ったが、まさか30人とは、あれほど儂が釘を刺したに聞こうとはせぬか」
天下を手中にした秀吉だが、急速に巨大になったため軍事面では充実しているが、内政はガタガタである、組織が出来ておらず、畿内近畿は奉行や代官を置いて管理しているが地方の大名は野放し状態であった。
悪いことに内政をする前に、南蛮人やキリシタンの取り締まり、唐国、朝鮮侵攻を始めてしまった、これがボディブローのように次第に豊臣家の屋台骨をむしばんでいく。
徳川家康は、これを冷静に見ていた、だから後に天下を再統一して徳川幕府を作ると、外交はキリシタンを禁じ、南蛮貿易もごく一部に絞り、明と仲直り
して、朝鮮共々互いに門を閉じてしまった。
内政では、「武家諸法度」で大名を、「公家、禁中法度」で朝廷、公家の自由を奪って、徳川幕府の政治基盤を固めていった
それは二代秀忠、三代家光でほぼ盤石になった、それが徳川260年を作ったのだ、参勤交代や、城普請で大名家の財政基盤を衰えさせ、大名の家族は人質として江戸に集められて永住とした。
だから幕末まで260年、大名による謀反はおこらなかったのだ、これが秀吉と家康の大きな違いである。
三成がうるさい。 「秀次のことは逐一報告せよ」と言った秀吉だが、近頃はうるさくて仕方ない、だが自分が言い出して、官僚らしく生真面目に働く三成にいまさら、「もうよい、秀次のことは調べずとも良い」とは、どうにも言いにくい・
秀次の噂を収集して知らせる者は、三成のほかにも数名いる
ほとんどが噂の域を出ないものなのだが、面白おかしい艶話などは特に秀吉に伝えられた。それは一御台と、その娘の二人を秀次が妻にしているというものであった。
さすがの秀吉も、この話には顔をしかめた、しかし石田三成が、「殿下、そのような話は下世話な者共の作り話でございます、拙者は殿下に命じられた通り、関白様の周囲を調べており、特に出入りの者を、ご報告していますが、先のような事実はないことだけは断言いたします」と、秀次の無実を語った。
秀吉は、てっきり三成が、反秀次であって、それこそない話も、ある様に話すと思っていたから意外であった、それをあえて問うと
「この三成、私利私欲で人を貶めるようなことは致しません、仕事ゆえ妥協も忖度も致しませぬ、あることはある、ないことはないと申し上げるのみでございます、私感は挟みません、殿下のお指図に従い、その仕事を完璧にやり遂げるだけです」と言い切ったから、秀吉は改めて三成の生真面目さに感心した。
「修理をこれに・・」淀が下女に言った
すぐに大野治長(修理)がやって来た、淀は下女を部屋から出した
秀吉が柴田勝家の北の庄城を攻め滅ぼした時、浅井三姉妹が再び秀吉によって救い出されたが、その時、供侍として母の大蔵卿の局、弟治房と共に出てきたのが治長であった、淀の従妹、京極高次もその時一緒にいたのだった。
その時、治長は茶々と同じ14歳であったが、今は26歳の凛々しい青年武将に成長した、淀とは齢が同じである
母の大蔵卿の局は、小谷城で茶々の乳母であった、それ以来ずっと市と三姉妹に従って動いて居る、だから淀と治長は乳兄弟なのだ。
「なぜ近頃殿下は顔を見せないのだろう」と聞いた
自分が拒んでそうさせていることなど忘れたのか・・・
「殿下は、唐国の使者が正式に降伏にやってくるとかで忙しいのです」
「そうなのか、それではしかたがないでしょう」そう言ってから、あたりに人けがないのを確かめて
「治長様が居てくれるなら、殿下が来なくても寂しくないわ」
「茶々様、いつになるかは知りませぬが、それまでの辛抱です」小声でささやくと淀は、女の顔になって
「早く、早くと毎日祈っているですよ」
「・・・」
「殿下は戦が無いとすぐに老いてしまって臭くてたまらない、それが戦となると若者に戻る得異な体質なのです」
「茶々様、殿下の話は結構です」
「ごめんなさい、聞きたくないわね」
「茶々さま」
「また朝鮮で戦が始まればいい、そうすれば殿下は名護屋へ行くでしょう
今度は拾いが居るから、私が名護屋に呼ばれることはないでしょう、京極でも加賀でも連れて行けば良い、私は殿下の傍に居たくない、治長様が大坂城に残ってくれれば、それで良いの」
「しかし戦は、もう起こりますまい」
「わかりませぬよ、殿下から戦を取ればただの老人になる、あの方は戦をやめることはできないでしょう」
謎めいた二人の会話である。
彦根城