昨年の春のことだが秀次は北政所を誘って、吉野の早咲きの桜を見物に行った
そこで「政所様、近頃私の噂をお聞きでしょうか」と政所に問うた
「正直に申すと、そなたの悪い噂を誰彼となく聞きます、でもたまにしか会うことはなかったけれど、その噂の大半が興味本位のでまかせであることは、私にはわかります」
「そう言っていただくと少しは安心できます、太閤殿下がどう思っているかと考えるだけで不安になるのです」
「殿下の目が淀殿と拾いに心を奪われるのは仕方ないとして、そなたはこれまで殿下の為に多くの戦に出かけ、関白まで譲られたのです
豊臣家の数少ない大名の筆頭であるそなたを攻めるのは筋違いです
でも殿下は、そなたを頼りに思うと先日も私に申しました
なにより名代として名護屋で総大将を命じられたでしょう、いかに殿下がそなたを頼りにしているかわかるでしょ
私からもそれとなく伝えますが、噂など気にすることはありません、殿下もそんなことは信じていませんから」
「そうですね、私の取り越し苦労なのですね」
「そうですとも、だが悪意を持って噂を広める者もいるでしょう、三成ら大坂城の奉行には隙を見せてはなりません
それと無暗に諸大名と密談と思われるようなことをしてはなりません、今一番怖いのは謀反の疑いをかけられることです、家臣の動きにも注意を払わないと、そのあたりから土手が崩れることもあります
困ったときは徳川様を頼りなさい、あのお方は中立で殿下も一目置いております、くれぐれも軽はずみな行動や言動をしてはなりませんよ」
三年前に秀次が関白職を秀吉から譲られると、秀吉は同時に聚楽第を秀次に与えて秀吉は完成まじかの伏見城へと移った
すると早速、関白の就任祝いと称して諸大名から公家、商人までが次々と祝いの高価な品や珍品、名物を届けにやって来た
もちろん、これから数十年、秀次の政治が続くことに期待しての顔つなぎであることは間違いない。
関白を譲ると表明した時、秀吉は若い秀次に釘を刺している
1.色に溺れてはならぬ 道中で見つけた女を拾うような意地の汚いことは絶対してはならない、筋道の通った確かな女を5人10人くらい側室として迎えるのは良い。
2.大掛かりな野外での鷹狩をしてはならない、趣味で遊ぶ程度にしておきなさい
3.茶道にのめり込んではいけない、それを利用してそなたを操ろうとする者がないとも限らない、たしなむ程度にして、政に集中するように
4.この三条は太閤がしてきたことである、そなたは儂の若いころと違い、貴公子であるから、庶民に生まれた儂の真似をしてはならない。
秀次は、これを守ろうとした、だが女好きな性癖だけは秀吉に負けず劣らずで、こればかりはあきらめようとしても諦められない
そんな秀次の性質を見抜いた者たちは、骨董や茶器、刀剣などばかりではなく生身の美女を献上するものも増えてきた、それが一番、秀次が喜ぶからだ
そうなると大名や公家さえも、自分の娘を献上する者が出てきたのだ
秀次の最初の結婚は、まだ秀吉の馬廻りの時で、小牧での戦の2年前だから秀次16歳の時だ、この年は、天正10年(1582)秀吉の運命を変えた大きな戦がいくつもおこった年だった
年明け早々、信長は甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼした。 秀吉は備中で毛利と戦い、高松城を水攻めしていた
その時、京、本能寺で信長が、明智の謀反で命を落とし、嫡男信忠までもが命を落とした
その後まもなく、謀反人明智と一族を秀吉は滅ぼした
その時、力になった一人に信長の乳兄弟の池田恒興が居た、秀吉は織田家中に顔が利く池田を抱き込みたいと思った
いずれ北陸にいる柴田勝家と対立すると思ったからだ、その時には池田の動向が勝敗のカギを握る気がしたのだ。
「池田殿、この度の光秀退治には、池田殿の目覚ましいお働きがなければなしえなかったかもしれませぬ、この筑前感服いたしました」
誰が見ても、信長の仇を討った立役者、総大将は秀吉だとわかっていたから、その秀吉に褒められて、情に厚い池田は悪い気がしない
秀吉は信長が信頼する軍団長の一人であって、与力大名の池田とは位が違う
なのに秀吉は少しも威張らず、腰を低くして池田に接したから感激した。
「それがしは此度の戦いぶりを見て、勇猛な池田殿と是非親戚になりたいと思いましたが、いかがでしょうか。
池田殿には姫がおられるとか聞き申した、儂にも年頃の甥がおりましてのう
嫁御を探しております、池田殿の姫様をいただければお互いの絆が、かとうなりますぞ」
池田恒興は、恩を売ればいずれわが子も秀吉の後見を受けて大身になれるかと考えて承知した。
「信吉(秀次)そなたの奥方が決まったぞ、舅は池田恒興殿じゃ、森長可も池田殿の姫をもろうておるから、そなたは森長可、池田元助と義兄弟じゃ、後ろ盾として不足はない、謹んで娶るがよい」
そんないきさつで正室になったのは「若政所」である、若政所は姑の北政所にも良く仕えたから、北政所も若政所を可愛がっていた
「若御台」とは、若い御台(正室)様であり「若政所」も同じ意味である
池田恒興に若政所を秀次の正室にもらう話をしたとき、恒興もまた秀吉に
「娘を嫁がせるついでに、儂の次男の輝政を一緒に付けてやるので家来として存分にお使いくだされ」と言った
秀吉は感服して「輝政殿は将来有望な偉丈夫だと聞いておる、それほどに言ってくださるなら家臣とは言わず、儂の養子としよう」と言って、養子として受け入れた。
池田輝政と若政所の兄妹と秀吉にはそんな因縁がある、
これが功を奏して、清須会議で柴田と揉めた時、池田恒興は秀吉に味方したので、ことは有利に運んだのだ。
それが最初の結婚だった、だが長久手の戦いで池田親子、森長可が戦死すると、「わしが叔父(秀吉)に厳しく叱責されたのは、元を言えば儂を無視して勝手に戦をして負けた舅のせいではないか」と逆恨みして、以後若政所を遠ざけるようになった、それを察して若政所も今は聚楽第に住む秀次にはついて行かず、昔のまま近江八幡城に居座っている。
若政所の兄弟で、父と兄を長久手の戦で失い池田家を継いだ池田輝政が若政所を支援している
だが心の中では秀次に対して怒り、距離を置いている。
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